細川忠興の正室・お玉(後の細川ガラシャ)が「本能寺の変」が起こったあとに隠棲した地。
歴史・概略
- 細川ガラシャは丹後国宮津城主、後の豊前国小倉藩藩主である細川忠興(ほそかわ・ただおき)の正室。明智光秀の三女で、名を玉・珠・玉子(たま・たまこ)といい、一般的にはキリシタンの洗礼名であるガラシャの名で呼ばれる。
- 明智氏と細川氏の間を取り持つため、織田信長の命により光秀の娘・たまと細川藤孝(幽斎)の子・忠興が結婚、山城国勝龍寺城において結婚生活を送った。
- 二人は一男一女をもうけ、後に丹後国宮津城に移った。
- しかしその矢先、たまの父である光秀が「本能寺の変」を起こし、明智家と細川家の主君である織田信長・織田信忠父子を殺害。これにより、たまは謀反人の娘として丹後の山奥、味土野(みどの)へと幽閉されてしまった。
- その後、天下の情勢は羽柴秀吉に傾き、たまは秀吉のとりなしで許された。たまは屋敷に戻され、後に大阪城の細川屋敷に移った。
たまはこの隠棲地で約2年を過ごし、二男の細川興秋(ほそかわ・おきあき)を生んだともいわれる。 - たまはこの後、自身の境遇ゆえかキリシタンに傾倒し大阪の屋敷で洗礼を受け、ガラシャの洗礼名をもらい受けた。また、「関ケ原の戦い」の前に西軍の人質とされそうになり、家臣によって殺害された。
見どころ・おすすめ
- 細川忠興夫人隠棲地碑(女城跡)-ガラシャが暮らした屋敷跡。
- ガラシャの古井戸-ガラシャが使ったと言われる井戸跡。
- 大岩-ガラシャが興秋を生んだと言われる場所。
- 男城跡-ガラシャの警護および監視をしていた者たちが詰めていた場所。
史跡情報
地図 |
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【場所】 京都府京丹後市弥栄町須川 |
主な施設 |
細川忠興夫人隠棲地碑(女城跡)・ガラシャの古井戸・大岩・男城跡 |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・京都丹後鉄道「網野」駅からタクシー約40分 【マイカー】 ・山陰近畿道「京丹後大宮IC」から約25Km |