平清盛終焉推定地・高倉天皇誕生地 | 場所と地図 – 歴史のあと

平清盛終焉推定地・高倉天皇誕生地

平清盛終焉推定地・高倉天皇誕生地碑 邸宅・住居跡
平清盛終焉推定地・高倉天皇誕生地碑
ジャンル:邸宅・住居跡
史跡年代:平安時代
関連タグ: 

平安時代末期、平清盛の側近として活躍した平盛国の邸宅跡(推定地)。この邸内で平清盛が没したとされる。

歴史・概略

  • 碑文
    「此付近 平清盛終焉推定地」
    「平安京左京八条四防一三町」
    「此付近 高倉天皇誕生地」
  • 平盛国(たいら・もりくに)平清盛と同じ伊勢平氏の一族で、平氏隆盛のきっかけともなった「保元の乱」「平治の乱」においても活躍、清盛の側近として仕えたが平家滅亡後は鎌倉に送られ自害している。
  • 平家が都を支配していた当時、平家一門の多くは鴨川の東側の六波羅と、西側の西八條第の二か所を拠点とし居を構えていた。拠点の間には隙間を埋めるように平家の一族の居館があり、この屋敷もそういった屋敷のひとつであった。
  • 応保元年(1161年)、平清盛の妻の異母妹であった平滋子(建春門院)が、邸内で憲仁親王(後の高倉天皇)を出産。この後、清盛は天皇の外戚として権勢を振るった。
  • 治承5年(1181年)、源頼朝木曾義仲武田信義らが相次いで挙兵するなど反平氏の動きが活発化する中、平家の中心的柱である平清盛が邸内で病没。清盛は死の間際「葬儀は不要。我が墓前に頼朝の首を備えよ。」と言ったとされている。
    この清盛の死後、平家は急速に力を失い滅亡への道をたどっていくこととなった。
    旗挙八幡宮

    木曽義仲挙兵の地・旗挙八幡宮(長野県木曽郡木曽町)

見どころ・おすすめ

史跡情報

地図
【場所】
京都府京都市下京区屋形町
【付近の史跡】
[ 東・約0.7km ] 法住寺殿蹟
[ 東・約0.7km ] 後白河天皇 法住寺陵
主な施設
石碑・案内板
利用時間
常時
定休日
無休
料金
無料
交通
【電車】
・JR「京都」駅から約0.6Km
・京阪電車「七条」駅から約0.7Km

【バス】
・市バス「河原町八条」バス停

【マイカー】
・名神高速「京都南IC」から約5Km
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