室町幕府草創期の争乱「延元の乱」における古戦場のひとつ。
歴史・概略
- 「延元の乱(えんげんのらん)」とは、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒したのちに主導した「建武の新政(けんむのしんせい)」より足利尊氏(あしかが・たかうじ)が離脱してから、室町幕府を開くに至るまでの一連の戦いのこと。ほかに「建武の乱(けんむのらん)」ともいう。
- 建武2年(1335年)、「中先代の乱」をきっかけに足利尊氏が建武政権より離脱し、「延元の乱」が勃発した。建武3年(1336年)には足利氏が京都を制圧、後醍醐天皇は一旦尊氏との和睦を行うが、その後吉野へと逃れ、南北朝動乱に至った。
- 足利軍上洛の際、後醍醐天皇は比叡山に逃れ、足利軍は比叡山を目指した。
延元元年/建武3年(1336年)6月7日、後醍醐天皇の寵臣のひとり千種忠顕(ちぐさ・ただあき)が、尊氏の弟・足利直義(あしかが・ただよし)と比叡山南側の京都雲母坂(きららざか)において対峙し戦死した。 - 「延元の乱」のおもな出来事
建武2年11月 矢作川の戦い/12月 鷺坂の戦い/12月 手越河原の戦い/12月 箱根・竹ノ下の戦い/建武3年1月 京都攻防戦/2月 豊島河原の戦い/3月 多々良浜の戦い/5月 湊川の戦い/6月 京都攻防戦
見どころ・おすすめ
- この少し北側には千種忠顕碑が立てられている。
史跡情報
地図 |
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【場所】 京都府京都市左京区修学院音羽谷 【付近の史跡】
[ 北東・約0.9km ] 千種忠顕戦死之地
[ 南西・約2km ] 将軍山城跡
[ 南西・約3km ] 中尾城跡
[ 南西・約4km ] 銀閣寺(足利義政東山殿)
[ 南・約4km ] 如意ヶ嶽城跡
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主な施設 |
石碑のみ |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・叡山電鉄「修学院」駅 ・叡山ケーブル「ケーブル比叡」駅 |