織田・徳川連合軍と武田軍との間で起こった「長篠の戦い」で討死した内藤昌豊の墓。
歴史・概略
- 内藤昌豊(ないとう・まさとよ)は馬場信春や山県昌景、高坂昌信とともに甲斐武田氏を支えた武田四天王のひとり。信玄が亡くなった後は子の勝頼に仕えた。昌秀(まさひで)ともいう。
- 武田氏の長篠城攻略による出陣で発生した「長篠の戦い」の開戦前の席で、昌豊は開かれた軍議の中で他の重臣たちとともに総大将の武田勝頼に対して撤退を進言したとされるが、勝頼は開戦することを決めた。昌豊ら重臣たちは死を覚悟して決戦に挑んで設楽ヶ原で両軍は激突、しかし武田軍は織田軍が築いた土塁と馬防柵に阻まれ敗走した。昌豊は勝頼退却のために踏みとどまり討たれて亡くなった。
「長篠の戦い」において討ち死にした山県昌景の墓(愛知県新城市)
見どころ・おすすめ
- 周辺には「長篠の戦い」に関する史跡が点在しているので、まとめて回るのがおすすめ。
- 新城市設楽原歴史資料館では「長篠の戦い」や火縄銃に関しての資料が展示がしてある。
- 3Kmほど東には、この戦いのきっかけとなった長篠城がある。
施設データ
地図 |
---|
住所:愛知県新城市八束穂
周辺の史跡を探す |
主な施設 |
内藤昌豊の墓・武田勝頼公指揮の地碑 |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・JR「三河東郷」駅から約1.3Km 【バス】 ・新城市コミュニティバス「歴史資料館」バス停 【マイカー】 ・新東名高速道路「新城IC」から約1.8Km ・駐車場あり |