内藤昌豊の墓(長篠の戦い) | 場所と地図 – 歴史のあと

内藤昌豊の墓(長篠の戦い)

内藤昌豊の墓 墓・慰霊碑
内藤昌豊の墓
ジャンル:墓・慰霊碑/古戦場
史跡年代:安土桃山時代

織田・徳川連合軍と武田軍との間で起こった「長篠の戦い」で討死した内藤昌豊の墓。

歴史・概略

  • 【内藤昌豊(ないとう・まさとよ)】大永2年(1522年)-天正3年(1575年)
    馬場信春山県昌景高坂昌信とともに甲斐武田氏を支えた武田四天王のひとり。信玄が亡くなった後は子の武田勝頼に仕えた。ほかに工藤源左衛門大尉・内藤修理亮・内藤昌秀の名がある。
  • 武田氏長篠城攻略のための出陣で「長篠の戦い」が勃発。昌豊は開戦前に開かれた軍議の中で他の重臣たちとともに総大将の武田勝頼に対して撤退を進言したとされる。しかし、勝頼は開戦することを決め、昌豊ら重臣たちは死を覚悟して決戦に挑んで設楽ヶ原で両軍は激突した。
    その結果、武田軍は織田軍が築いた土塁と馬防柵に阻まれ敗走、昌豊勝頼退却のために踏みとどまり討たれて亡くなった。
  • 戦いの際には武田軍の総大将である勝頼がこの場で指揮を執ったとされ、武田勝頼公指揮の地碑が立てられている。

見どころ・おすすめ

  • 周辺には「長篠の戦い」に関する史跡が点在しているので、まとめて回るのがおすすめ。
  • 新城市設楽原歴史資料館では「長篠の戦い」や火縄銃に関しての資料が展示がしてある。
  • 3Kmほど東には、この戦いのきっかけとなった長篠城がある。

史跡情報

地図
【場所】
愛知県新城市八束穂
主な施設
内藤昌豊の墓・武田勝頼公指揮の地碑
利用時間
常時
定休日
無休
料金
無料
交通
【電車】
・JR「三河東郷」駅から約1.3Km

【バス】
・新城市コミュニティバス「歴史資料館」バス停

【マイカー】
・新東名高速道路「新城IC」から約1.8Km
・駐車場あり
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