「延元の乱」の戦闘において名和長年が討ち死にしたと伝わる場所。
歴史・概略
- 名和長年(なわ・ながとし)は伯耆国で海運業を行っていた村上源氏の一族・名和氏の当主である。鎌倉時代末期、幕府によって隠岐島に配流された後醍醐天皇の脱出を助け、船上山において倒幕運動を起こした。
後に楠木正成・千種忠顕・結城親光とともに後醍醐天皇を支えた忠臣として言われる「三木一草(さんぼくいっそう)」のひとりである。 - 建武2年11月19日(1336年1月2日)、長年とともに後醍醐天皇を支えたひとり足利尊氏が建武政権を離脱し、「延元の乱(えんげんのらん)」が勃発。長年は後醍醐天皇(南朝)について足利軍(北朝)と対峙することとなった。
- 延元元年/建武3年3月、一度都を追われた足利軍が九州で再起、5月に楠木正成と新田義貞らが摂津国湊川において衝突し敗北した(湊川の戦い)。6月には足利軍の入京を許し、各地で南朝と北朝による市街戦が起こった。
- 延元元年/建武3年6月30日(1336年8月7日)、長年が尊氏軍と戦い三条猪熊(「梅松論」による)において戦死。現在、顕彰碑が置かれている。
ただし、「太平記」では一条大宮で討死したとされており、そちらにも慰霊碑が置かれている。 - 「延元の乱」のおもな出来事
建武2年11月 矢作川の戦い/12月 鷺坂の戦い/12月 手越河原の戦い/12月 箱根・竹ノ下の戦い/建武3年1月 京都攻防戦/2月 豊島河原の戦い/3月 多々良浜の戦い/5月 湊川の戦い/6月 京都攻防戦
「延元の乱」における戦地のひとつ竹之下古戦場碑(静岡県駿東郡小山町)
見どころ・おすすめ
- 理由は良く分からないが顕彰碑は柵に囲まれている。一応、柵の外から見ることはできるし、石碑のみなので特に問題はないと思う。
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南北朝への分岐点!名和長年最期の地
後醍醐天皇を支えた忠臣・名和長年最期まで天皇に忠誠を誓い足利尊氏の軍と戦い散っていった・「名和長年公殉節之所」碑#名和長年#京都#歴史
史跡情報
地図 |
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【場所】 京都府京都市中京区三条猪熊町 【付近の史跡】
[ 南東・約0.2km ] 中山内府威蹟地
[ 西・約0.4km ] 六角獄舎跡
[ 南東・約0.4km ] 藤堂藩藩邸跡(京都)
[ 南東・約0.4km ] 本能寺跡(織田信長最後の地)
[ 北西・約0.4km ] 神泉苑
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主な施設 |
石碑のみ |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・地下鉄「二条城前」駅から約0.4Km ・阪急電車「大宮」駅から約0.7Km ・京福電車「四条大宮」駅から約0.7Km ・JR「二条」駅から約1Km 【バス】 ・市バス「堀川三条」「堀川蛸薬師」バス停 ・京都バス「堀川御池」「神泉苑前」バス停 【マイカー】 ・名神高速道路「京都南IC」から約6Km |