大阪府大阪市にある城。
歴史・概略
大阪城(おおさかじょう)は、天正11年(1583年)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって築城され、その後秀吉政権の本拠地となった。築城時の総奉行は黒田官兵衛で縄張りも行った。城の北側に大川が流れる天然の要害で、築城以前には石山本願寺が建っていた。別名金城、または錦城ともいう。
秀吉の死後、遺児である豊臣秀頼が政権を引き継いだが、関ケ原の戦いを経て江戸幕府を開いた徳川家康の率いる大軍に攻められ落城した。その後、江戸幕府により大掛かりな改修が行われ、豊臣時代の遺構は土の中へと消えた。現在残っている櫓や石垣、縄張りのほとんどは江戸期のものである。
天守は豊臣時代と徳川時代に築かれたがいずれも焼失し、今ある天守は昭和になってから市民の寄付によって再建された。下から4層目までは徳川時代風の漆喰の白い壁、5層目は豊臣時代風に黒い壁に金箔で虎などを描くなどしている天守は、今や大阪のシンボルとなっている。
- 築城:天正11年(1583年)
- 廃城:明治元年(1868年)
- 築城主:豊臣秀吉
- 構造:平城・輪郭式
- 日本100名城
- 重要文化財(大手門・多門櫓・千貫櫓・乾櫓など)
- 天正11年(1583年)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)により石山本願寺跡地に築城。工事はほかに天正14年(1586年)、文禄3年(1594年)、慶長3年(1598年)など数度に渡って行われた。
- 天正14年(1586年)、大阪城内において徳川家康が秀吉に対し諸大名が列するなか臣従を誓った。
- 慶長5年(1600年)、石田三成が挙兵、三成が城内にいる大名家の人たちを拘束。このとき細川ガラシャは人質となることを拒否して自害。
- 慶長8年(1603年)、徳川秀忠の娘・千姫が秀頼に輿入れ。
- 慶長19年(1614年)、「大坂冬の陣」が起こる。
- 慶長20年(1615年)、「大坂夏の陣」が起こる。
- 寛永6年(1629年)、大修築完了。
- 寛文5年(1665年)、落雷により天守焼失。
- 慶応2年(1866年)、長州征伐で上洛していた将軍・徳川家茂が大阪城で病没。
- 慶応3年(1868年)、徳川慶喜が京都二条城から大阪城に退去。
- 慶応4年(1868年)、「鳥羽伏見の戦い」により慶喜が江戸へ退去。
- 昭和6年(1931年)、復興天守閣完成。
- 「大阪の陣」のおもな出来事
<慶長19年>7月 方広寺梵鐘の銘文事件/10月 豊臣方・徳川方開戦準備/11月 木津川口の戦い/11月 今福の戦い/11月 鴫野の戦い/11月 博労淵の戦い/11月 野田・福島の戦い/12月 真田丸の戦い/12月 豊臣方と徳川方が和議/12月 堀の埋め立て開始
<慶長20年>3月 豊臣家の移封を要求/4月 再び開戦準備/4月 樫井の戦い/5月 道明寺の戦い(後藤又兵衛討死)/5月 八尾・若江の戦い/5月 天王寺・岡山の戦い(真田幸村討死)/5月 千姫、大阪城より救出/5月 大阪城落城(秀頼・淀君自害)
見どころ・おすすめ
- 天守閣-豊臣秀吉と大阪城に関する博物館。
- 門・櫓・蔵-大手門や多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、金蔵など城内には数多くの建物が残されている。
- 豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地碑-「大坂の陣」で豊臣秀頼や淀殿が自刃した場所と伝わる。
- 豊国神社-豊臣秀吉を祀る神社。境内には巨大な豊臣秀吉像が立つ。
- 石垣-石垣にはところどころ巨石が使われており、これらを巡ってみるのも面白い。
- 庭園-桜や梅など季節ごとの花が咲き誇る。
史跡情報
地図 |
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【場所】 大阪府大阪市中央区大阪城 【付近の史跡】
[ 南西・約0.4km ] 石山本願寺推定地
[ 西・約0.6km ] 東町奉行所跡(大塩平八郎ゆかりの地)
[ 南・約0.7km ] 難波宮内裏東方遺跡
[ 南・約0.7km ] 難波宮跡東辺
[ 南西・約0.8km ] 法円坂遺跡・前期難波宮内裏西方官衙
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主な施設 |
天守閣(展示室)・西の丸庭園・梅林・市民の森・記念樹の森・においの森・おもいでの森・豊国神社 |
利用時間 |
【天守閣】 9:00 ~ 17:00(時期によって変更あり) 公園は常時開園 |
定休日 |
【天守閣】 年末年始 |
料金 |
【天守閣】 大人600円・中学生以下は無料 |
交通 |
【電車】 ・JR「大阪城公園」「森ノ宮」駅 ・大阪地下鉄「森ノ宮」「谷町四丁目」「大阪ビジネスパーク」「天満橋」駅 【マイカー】 ・駐車場あり |