江戸時代末期の会津藩家老・西郷頼母(さいごうたのも)の屋敷跡。
歴史・概略
- 西郷家は代々会津藩家老を務める家柄で、頼母が家督を継いだ後、藩主の松平容保(まつだいら・かたもり)に家老として仕えた。特に容保が京都守護職就任の際には、強硬に反対したといわれる。
- 戊辰戦争が勃発すると、奥羽越列藩同盟のひとりとして頼母は東北の玄関口白河城において新政府軍と激しい戦闘を繰り広げた。だが、最終的には新政府軍に突破され、その後も次々と防衛ラインが破られていった。
- 慶応4年(1868年)8月、新政府軍がいよいよ会津若松城城下へと迫り、会津藩士たちは城に集まって籠城策を取った。頼母を城へと送り出し屋敷に残された妻は、もしこの先新政府軍に捕まり恥辱を受けることになれば家名の恥になるとして、一族の幼い子や女子合わせて21名で自刃して果てた。このことは会津戦争における悲劇のひとつとして今も語られている。
史跡情報
地図 |
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【場所】 福島県会津若松市追手町 【付近の史跡】
[ 南・約0.3km ] 鶴ヶ城(会津若松城)
[ 西・約0.3km ] 山鹿素行誕生の地・直江兼続屋敷跡
[ 西・約0.6km ] 日新館・天文台跡
[ 南西・約0.7km ] 山本覚馬・新島八重生誕の地
[ 南東・約1.5km ] 西軍砲陣跡(会津戦争)
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主な施設 |
石碑のみ |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・JR「西若松」駅から約2Km 【バス】 ・会津鉄道「西若松」駅 ・会津バス「鶴ヶ城入口」「北出丸大通り」「合同庁舎前」バス停 【マイカー】 ・磐越自動車道「会津若松IC」から約5Km |