平安時代末期、奥三河において行われた「長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)」で犠牲となった人たちを弔った塚。
歴史・概略
- 天正3年(1575年)、武田信玄亡き後を継いだ子の武田勝頼が徳川領であった三河国長篠城へ侵攻。これを契機に徳川家康および同盟を組む織田信長連合軍との間に「長篠の戦い」が勃発した。
この戦いで武田軍は多くの重臣を失うなど大敗を喫し、犠牲者の数は両軍合わせて1万以上ともいわれる。 - 戦いの後、周辺の村人たちは戦死者たちを葬って二つの塚を築いた。武田軍の戦死者を弔った方が「信玄塚」、織田・徳川軍の戦死者を弔った方が「小塚」と呼ばれる。
見どころ・おすすめ
- すぐ前には原昌胤の墓、3Kmほど東には、この戦いのきっかけとなった長篠城がある。とにかくこの一帯には「長篠の戦い」に関わる史跡が多数あるので、まとめて回るのがおすすめ。
- 新城市設楽原歴史資料館では「長篠の戦い」や火縄銃に関しての資料が展示がしてある。
史跡情報
地図 |
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【場所】 愛知県新城市竹広 【付近の史跡】
[ 南西・約0.1km ] 原昌胤の墓(長篠の戦い)
[ 西・約0.1km ] 小幡信貞の墓(長篠の戦い)
[ 南・約0.2km ] 首洗い池(長篠の戦い)
[ 南西・約0.2km ] 山県昌景の墓(長篠の戦い)
[ 北西・約0.3km ] 甘利信康の墓(長篠の戦い)
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主な施設 |
信玄塚(大塚)・小塚 |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・JR「三河東郷」駅から約0.7Km 【マイカー】 ・新東名高速道路「新城IC」から約1Km ・駐車場あり |