404 NOT FOUND | 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Wed, 29 Nov 2023 01:11:23 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.4 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 404 NOT FOUND | 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 藤原定家 一条京極第跡 https://rekishidou.com/teikatei-2/ Sun, 15 Oct 2023 11:26:17 +0000 https://rekishidou.com/?p=14941 平安時代末期から鎌倉時代初期の貴族・藤原定家の邸宅跡。
貴族というより歌人としての名声が高く、特に小倉百人一首の選者として広く知られている。

歴史・概略

  • 【藤原定家】ふじわら・さだいえ/ふじわら・ていか
  • 【生没年】応保2年(1162年)-仁治2年(1241年)
  • 【官位】正二位・権中納言
  • 【素性】藤原北家御子左流 藤原俊成の二男。御子左家(みこひだりけ)は藤原道長の六男 藤原長家を祖とする一族で、後に二条家や冷泉家、京極家などに分かれた。定家は道長から数えて5代目の子孫にあたる。
  • 【人物】貴族で歌人でもある俊成の子として生まれ、才能を開花。多くの歌を残し、後に歌聖と称えられた。新古今和歌集、新勅撰和歌集、小倉百人一首の編纂に携わったほかにも、源氏物語や土佐日記などの古典の研究にも成果を残している。後鳥羽上皇源実朝などとも歌を通じて親交を結んだという。
  • 碑文「此付近 藤原定家 一条京極第跡」
  • 一条京極第(いちじょうきょうごくてい)は定家が晩年に暮らした屋敷で承久年間(1219年~1222年)以降(58歳ごろか)に移り住み、亡くなるまでの20年ほどを過ごした。屋敷の名から京極殿や京極中納言などと称され、定家没後は嫡男の為家に伝領された。
  • 場所は平安京東京極大路と一条通りの北東で、現在の京都御苑東側、京極小学校あたりとされており石碑が立てられている。ただ、この場所からはっきりとした屋敷の痕跡が見つかったというわけではなく、定家が書き残した日記『明月記』などの記録からあくまで推定されたもの。ちなみに京極小学校はノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士の出身校でもある。
  • 定家邸周辺図

    藤原定家邸周辺図(案内板より)

見どころ・おすすめ

  • ここには石碑があるのみで特に何もない。
  • 京都御苑散策のついでにでも寄ればよいと思うが、周辺には道長の土御門第跡や道長が建立した法成寺跡、源氏物語を執筆したという紫式部邸宅跡(蘆山寺)などがある。
  • 定家の墓所はこの場所から1キロほど北西にいった臨済宗大本山の相国寺にある。
  • ここから南に少し行った夷川通あたりにも京極邸跡碑が立てられているが、これは記録の解釈の違いによるものらしい。

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光明天皇・崇光天皇 大光明寺陵 https://rekishidou.com/daikomyojiryo/ https://rekishidou.com/daikomyojiryo/#respond Wed, 04 Oct 2023 04:56:34 +0000 https://rekishidou.com/?p=9396 室町時代初期に在位した北朝の天皇、光明天皇および崇光天皇の陵墓。

歴史・概略

  • 光明天皇(こうみょうてんのう)。北朝第2代天皇。持明院統。豊仁(ゆたひと)
  • 在位:建武3年(1336年) ~ 貞和4年(1348年)
  • 父:後伏見天皇 母:西園寺寧子(左大臣 西園寺公衡の娘)
  • 御陵名:大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ)
  • 墳形:円丘
  • 崇光天皇(すこうてんのう)。北朝第3代天皇。持明院統。興仁(おきひと)
  • 在位:貞和4年(1348年) ~ 観応2年(1351年)
  • 父:光厳天皇 母:正親町三条秀子
  • 御陵名:大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ)
  • 墳形:円丘
  • 元亨元年(1322年)、持明院統の後伏見上皇の第九皇子として豊仁(光明天皇)誕生。
  • 正慶2年(1333年)、大覚寺統の後醍醐天皇鎌倉幕府を倒し、建武の新政を始める。このとき持明院統の光厳天皇(こうごんてんのう)の即位は否定されたため廃位となった。
  • 建武元年(1334年)、光厳上皇の第一皇子として興仁(崇光天皇)誕生。
  • 建武3年/延元元年(1336年)、後醍醐天皇と袂を分かった足利尊氏光厳上皇に近づき、弟の光明天皇を即位。この時点から北朝が誕生したことになるが、光厳天皇は即位を否定され歴代に数えられていないため、光厳天皇が北朝初代とされている。
  • 貞和4年/正平3年(1348年)、光厳上皇の皇子崇光天皇に譲位。
  • 観応2年/正平6年(1351年)、正平一統により北朝が消滅。崇光天皇が廃位。
  • 文和元年/正平7年(1352年)、南北朝の和平が破綻し光厳上皇・光明上皇・崇光上皇が南朝方に幽閉。
  • 天野山金剛寺

    上皇が幽閉された場所のひとつ金剛寺(大阪府河内長野市)

  • 文和4年/正平10年(1355年)、光明上皇が南朝より解放。
  • 延文2年/正平12年(1357年)、光厳上皇・崇光上皇が南朝より解放。
  • 康暦2年/天授6年(1380年)、光明上皇崩御。宝算60。
  • 明徳3年/元中9年(1392年)、南北朝合一。
  • 応永5年(1398年)、崇光上皇崩御。宝算65。

見どころ・おすすめ

  • 御陵があるのは伏見なので周辺には歴史遺産が豊富。明治天皇陵や桓武天皇陵、伏見城、維新関連などどこかまわるついでにでも寄ればよいかと。

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冷泉天皇 櫻本陵 https://rekishidou.com/reizeitennoryo/ https://rekishidou.com/reizeitennoryo/#respond Tue, 03 Oct 2023 05:53:19 +0000 https://rekishidou.com/?p=9546 平安時代中期に在位した冷泉天皇の陵墓。

歴史・概略

  • 冷泉天皇(れいぜいてんのう)。第63代天皇。憲平(のりひら)
  • 在位:康保4年(967年) ~ 安和2年(969年)
  • 父:村上天皇 母:藤原安子(藤原師輔の娘)
  • 御陵名:櫻本陵(さくらもとのみささぎ)
  • 墳形:円丘
  • 天暦4年(950年)、村上天皇の第二皇子として誕生。その後わずか2カ月にして立太子。これには母方の権力者藤原実頼・師輔兄弟の意向が強く働いたものとみられる。
  • 康保4年(967年)、村上天皇崩御により18歳で即位。
  • 安和2年(969年)、同母弟の円融天皇に20歳で譲位、太上天皇となる。これ以後しばらく冷泉系と円融系の両統迭立の時代が続く。
  • 寛弘8年(1011年)、62歳で崩御。死因は赤痢との記録がある。
  • 退位後に嵯峨天皇の離宮であった冷泉院を後院としたことから冷泉院と称されるようになり、冷泉天皇の名もこれに由来する。
  • 冷泉天皇には気の病があり、場所をわきまえず大声で歌ったりするなど即位前より奇行が目立っていたという。そのことを理由に在位期間が極端に短かったとされているが、皇統を移したことを正当化するためだったのではないかとする説もある。

見どころ・おすすめ

  • すぐ西側に火葬塚がある。
  • 特に天皇陵自体なにがあるわけでもないので、哲学の道など観光地の中にあるのでついでに寄ればよいかと。

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膳所城跡 https://rekishidou.com/zezejo/ https://rekishidou.com/zezejo/#respond Mon, 02 Oct 2023 02:18:02 +0000 http://rekishidou.com/?p=3081 滋賀県大津市にあった平城。江戸時代の膳所藩(ぜぜはん)藩庁。
天下普請として諸大名に築かせた城のひとつ。ほかに石鹿城、望湖城とも呼ばれる。

歴史・概略

  • 築城:慶長6年(1601年)
  • 廃城:明治3年(1870年)
  • 築城主:徳川家康
  • 構造:梯郭式・平城
  • 主な城主:戸田氏・本多氏・菅沼氏・石川氏
  • 関ケ原の戦いのあと実質的な天下の主となった徳川家康の命により、戦いで被害を受けた大津城の東約3キロの場所に築城が開始された。築城は大名たちを強制的に動員する天下普請によって行われ、この天下普請による築城は膳所城が最初。こののちは大阪城や江戸城、名古屋城などでも天下普請による築城が続けられた。
  • この場所を選んだ理由は交通の要衝である瀬田の唐橋(せたのからはし)から近かったためと考えられ、「唐橋を征する者は天下を征する」と古くよりいわれるほど唐橋の重要性は高かった。築城から藩主は何度か入れ替わっているが、江戸時代を通じて譜代大名が藩主を務めている。
  • 膳所城は琵琶湖西岸に造られた水城で、松江城(島根県松江市)や高島城(長野県諏訪市)とともに三大湖城のひとつに数えられる。縄張りは築城の名手として数多くの城に携わった藤堂高虎。本丸や各曲輪を湖面に浮かぶ島のように配し、本丸には4重4階の天守が建てられたという。
  • 膳所城俯瞰図

    膳所城俯瞰図(案内板より)

  • 築城には大津城の部材が流用されたといわれ、大津城は廃城となった。完成後は譜代戸田一西(とだかずあき)が入城し膳所藩が立藩。
  • 元和2年(1616年)、本多康俊が入部。
  • 元和7年(1621年)、菅沼定芳が入部。
  • 寛永11年(1634年)、石川忠総が入部。
  • 慶安4年(1651年)、本多俊次が再び入部。以後本多氏が領地を継ぎそのまま明治を迎えた。
  • 寛文2年(1662年)、地震により建物が損壊。
  • 明治3年(1870年)、廃城。

見どころ・おすすめ

  • 現在は公園として整備されており、遺構はほとんど残っていない。あるのは石垣の一部と公園入口には城門が復元されている。
  • 近隣の神社などに門や櫓などが移築されている。
膳所城跡碑

膳所城跡碑(滋賀県大津市)

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大津城跡 https://rekishidou.com/otsujo/ https://rekishidou.com/otsujo/#respond Sat, 30 Sep 2023 11:31:30 +0000 http://rekishidou.com/?p=3482 滋賀県大津市にあった安土桃山時代の城。
天下分け目の関ケ原の戦いが勃発した際に大規模な攻城戦が行われたことで知られる。

歴史・概略

  • 築城:天正14年(1586年)
  • 廃城:慶長6年(1601年)
  • 築城主:浅野長政
  • 構造:平城
  • 主な城主:浅野長政・増田長盛・新庄直頼・京極高次・戸田一西
  • 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いの戦功により浅野長政に大津の地が与えられ、入府当初は瀬田城、坂本城を本拠とした。
  • 天正14年(1586年)、豊臣秀吉の命により大津城を築城。築城には坂本城の資材が使用され、坂本城は廃城となった。
  • 大津城は琵琶湖西岸に造られた水城で、三重の堀と本丸や奥二の丸、二の丸、三の丸、伊予丸、香集丸などの曲輪群を持つ構造。本丸には4重5階の望楼型天守が建てられ、現在の彦根城の天守は大津城から移築したものとされている。
  • 大津城縄張り図

    大津城縄張り図(案内板より)

  • その後は天正17年(1589年)増田長盛天正19年(1591年)新庄直頼文禄4年(1595年)京極高次が次々に任ぜられ、数年おきに城主が変わっていった。
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いが勃発し各地で戦闘が起こった。
    城主の京極高次が西軍から東軍へ寝返り、西軍は背後の大津城に対処する必要に迫られ城を包囲。高次は籠城策で8日ほど攻撃をしのいだものの、9月15日に降伏し開城した。
    開城の同日、関ケ原では両軍が衝突。大津城では西軍が勝利したものの、戦上手で知られた立花宗茂をはじめとする西軍約1万5千(1説には4万)が大津城にクギ付けとなり関ケ原で西軍は敗北した。
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康が入城。敗者となった石田三成が捕縛され大津城に護送、門前にさらされたあと家康と会見を行った。三成は門前にやってきた小早川秀秋に対し、裏切りを激しく糾弾したといわれている。
  • 慶長5年(1600年)、戦後京極氏は越前若狭に加増転封され、あとに戸田一西(とだかずあき)が入府。
  • 慶長6年(1601年)、徳川家康の命により東4キロの場所に膳所城(ぜぜじょう)を新たに築城。大津城の建物は膳所城や彦根城に移築され、大津城は廃城となった。
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和田惟政供養塔(東奈良史跡公園) https://rekishidou.com/koremasakuyou/ Mon, 21 Aug 2023 23:19:12 +0000 https://rekishidou.com/?p=16681 白井河原の戦いにおいて命を落とした室町時代末期の戦国武将・和田惟政の供養塔。
および弥生時代の集落跡。

歴史・概略

  • 【和田惟政(わだ・これまさ)】享禄3年-元亀2年(1530年-1571年)
    元は近江の豪族で後の15代将軍・足利義昭の近江逃亡を手助けした。後の織田信長による上洛の際にも貢献し芥川山城高槻城などを与えられ、摂津守護のひとりとなった。
  • 【白井河原の戦い(しらいがわらのたたかい)】
    交戦勢力:荒木村重中川清秀 VS 茨木重朝和田惟政
    決戦日:元亀2年8月28日(1571年9月17日)
    場所:大阪府茨木市茨木川周辺
    状況:村重らが三好勢力と結び反織田に寝返り、織田方の和田軍と対峙した。兵力に劣る和田軍は時間稼ぎを行うも荒木・中川軍はこれを好機とみて戦端を開き、惟政・重朝ともども討ち取られた。
  • 【東奈良遺跡(ひがしならいせき)】昭和46年に発見された弥生時代の集落跡。その後の調査により集落は周囲1キロ以上にも及ぶ大規模なもので、いくつもの環濠のほか住居群や墓群、工房などが確認されている。また、遺跡からは銅鐸の鋳型が複数出土しており、銅鐸生産地や流通を知る上での貴重な発見となった。
  • 茨木市立文化財資料館

    銅鐸の鋳型(茨木市立文化財資料館)

見どころ・おすすめ

  • 白井河原の戦いが起こったのは、この場所から4Kmほど北に行った茨木川の周辺。いくつか史跡があるのでまとめてまわるのがおすすめ。
  • 以前は白井河原の戦いが起こった戦場近くの茨木市五日市付近に供養塔が置かれていたが、現在はこちらの公園に移動している。
  • 公園内には古墳時代に作られた代表的なハニワや出土した銅鐸の鋳型、江戸時代の土蔵などが展示されている。
  • 併設の茨木市立文化財資料館では東奈良遺跡など茨木の歴史展示がされている。無料の割に展示がしっかりとしているのでぜひ立ち寄ってみて。

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宇治陵35号墳(藤原時平の墓) https://rekishidou.com/ujiryo-35/ Wed, 17 May 2023 02:14:40 +0000 https://rekishidou.com/?p=15320 京都府宇治市にある平安時代の墳墓。平安時代前期に権力を握った藤原時平の墓とされる。

歴史・概略

  • 宇治陵(うじりょう・うんじのみささぎ)とはひとつの墳墓のことではなく、宇治市木幡(うじしこはた)に点在している300余りの墳墓をまとめて指すものである。
  • 平安時代には藤原氏の埋葬地となったため、平安時代初期から後期にかけて当主だけでなく一族から入内した天皇の妃などが葬られた。ただ平安時代の終わりには埋葬地として使われなくなった上、権力の衰えによって陵墓は荒廃。そして長い年月が経過したことで、いまはどこにだれが眠っているのか分からなくなった。ただ不明ながらもこれらの陵墓は天皇家に繋がるものとして、現在は37個所が指定され宮内庁の管理下に置かれている。
  • 藤原時平(ふじわらときひら)平安時代前期の公卿。藤原北家貞観13年-延喜9年(871年-909年)藤原基経の長男として権力を引き継ぎ、摂政・関白・太政大臣に就任。
    なかでも菅原道真を追い落とした人物として知られ、若くして亡くなった後は道真の祟りとして恐れられた。そして天神信仰が深まるにつれて大悪人として描かれるようになっていったのだとか。
  • 35号墳は時平塚と呼ばれ、藤原時平の墓とされている。被葬者不明の宇治陵の中にあって唯一人名と思しき名称がつけられている陵墓である。

見どころ・おすすめ

  • 陵墓の入口は東側にある。住宅街の中なので気をつけていないと見落とすと思う。
  • 周辺は宇治陵が点在しており、藤原道長が藤原氏の菩提を弔うため建立したという浄妙寺跡碑も近い。

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宇治陵34号墳(赤塚・伝 藤原冬嗣夫妻墓所) https://rekishidou.com/ujiryo-34/ Tue, 16 May 2023 04:53:06 +0000 https://rekishidou.com/?p=15317 京都府宇治市にある平安時代の墳墓。平安時代初期の権力者であった藤原冬嗣の墓と伝わる。

歴史・概略

  • 宇治陵(うじりょう・うじのみささぎ)とは、宇治市木幡(うじしこはた)一帯に点在している古墳時代平安時代など様々な時代を含む300基以上の古墳・陵墓の総称。平安時代の始め藤原基経が一族の埋葬場所としてより、藤原北家の当主やそこから入内した天皇の妃などが平安時代の終わり頃にかけて葬られた。
    それ以降は時代とともに風化し、だれがどこに葬られたかも分からなくなり今に至っている。ただそうした陵墓については天皇家に繋がるものとして、宮内庁によって37個所が指定され管理下に置かれている。
  • 藤原冬嗣(ふじわらふゆつぐ)平安時代初期の公卿(左大臣)。藤原北家宝亀6年-天長3年(775年-826年)。その後長らく続いてゆく藤原北家一族隆盛の礎となった人物。
  • 赤塚とも呼ばれる34号墳が冬嗣の墓と伝えられているが確かなことは不明。またこの時代では異例ではあるが、夫人の藤原美都子も同じ場所に葬られたとされている。

見どころ・おすすめ

  • 周辺には宇治陵が1号から37号まで点在しており、道長が建立したという浄妙寺跡もあるので回ってみるとよいかと。

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宇治陵36号墳(藤原基経の墓) https://rekishidou.com/ujiryo-36/ Mon, 15 May 2023 05:02:13 +0000 https://rekishidou.com/?p=15308 京都府宇治市にある平安時代の墳墓。平安時代の権力者であった藤原基経の墓ともいわれている。

歴史・概略

  • 宇治陵(うじりょう・うじのみささぎ)とは、宇治市木幡(こはた)一帯に点在する300余りの墳墓の総称。平安時代初期には藤原基経がこの付近一帯を藤原北家一族の埋葬地としたため、平安時代後期に至るまで当主や一族から入内した天皇の妃などが葬られた。その後は藤原氏の衰退とともに墓所が荒廃し、それぞれの被葬者が不明のまま今に至っている。
  • 宮内庁は天皇の妃や藤原氏の当主などの陵墓であるとして、そのうちの37個所を指定し管理下に置いている。
  • 藤原基経(ふじわらもとつね)平安時代初期の公卿。藤原長良の三男であったが、叔父で男子のなかった権力者・藤原良房の養子となり、良房が亡くなったのち政治基盤を受け継いだ。その後摂政や史上初の関白に就任(異論もある)するなど藤原政権を確立した人物のひとり。
  • 許波多神社(こはたじんじゃ)境内西側の一角、狐塚と呼ばれる5m四方ほどの柵に囲まれた小さな墳墓(宇治陵36号墳)が基経の墓とされている。藤原道長藤原氏の菩提を弔うため浄妙寺を建立した際、深草から改葬されたと伝わっているが定かではない。

見どころ・おすすめ

  • この付近一帯には宇治陵が点在しているので回ってみるのがよいかと。

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藤原道長建立浄妙寺跡 https://rekishidou.com/jomyoji-2/ https://rekishidou.com/jomyoji-2/#respond Sun, 14 May 2023 03:02:59 +0000 https://rekishidou.com/?p=12220 京都府宇治市に平安時代から室町時代にかけてあった寺院跡。平安時代の権力者であった藤原道長ゆかりの寺。

歴史・概略

  • 平安時代初期から後期にかけてこのあたりは藤原北家一族の埋葬地とされており、現在でも付近一帯には墳墓が点在してる。若き藤原道長がこの地を訪れたとき、あまりの荒廃ぶりに嘆き寺の建立を決意したといわれている。
  • 寛弘2年(1005年)、木幡(こはた)の地に道長が法華三昧堂(ほっけさんまいどう)を建立、園城寺(おんじょうじ)の勧修(かんしゅう)を招いて浄妙寺を開山した。地名から木幡寺とも呼ばれ、寛弘4年(1007年)に完成した。
  • 浄妙寺は三昧堂のほか祠堂、鐘楼、客殿、僧房、多宝塔などの伽藍を備えた本格的寺院で、藤原氏の菩提寺となった。ただその後の藤原氏の衰退もあり、詳細は不明であるが中世の戦火で廃絶したとみられている。
  • 木幡小学校の建設に伴い調査が実施され、いくつかの痕跡を発見。これは三昧堂跡とみられ現在は校庭の下に埋め戻されている。

見どころ・おすすめ

  • 痕跡についてはまったく見ることができない。小学校前に浄妙寺跡碑が立つのみである。
  • 周辺には藤原氏ゆかりの宇治陵が点在しており、すぐ南側には道長の墓とみられている32号墳がある。

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宇治陵32号墳(藤原道長の墓) https://rekishidou.com/ujiryo-32/ Sat, 13 May 2023 09:10:59 +0000 https://rekishidou.com/?p=15311 京都府宇治市にある平安時代に造られた墳墓のひとつ。平安時代中期の公卿・藤原道長の墓とする説がある。

歴史・概略

  • 【藤原道長】ふじわら・みちなが(別名:御堂関白)
  • 【生没年】康保3年(966年)- 万寿4年(1028年)
  • 【官位】従一位・太政大臣・摂政(後一条天皇)
  • 【素性】藤原北家 藤原兼家(摂政・関白・太政大臣)の五男。兄たちが相次いで亡くなり政権を掌握、娘たちを入内させ後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇の外祖父となった。
  • 【人物】剛腕政治家である一方、歌の会を催したり多くの歌を残す。さらに源氏物語の作者紫式部を見出すなど文化面でも才能を発揮、作中の光源氏のモデルであるともいわれている。20年以上に渡って書き綴った日記『御堂関白記』は国宝に指定されている。道長をあらわすものとして『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば』の句はあまりにも有名。
    最後は自邸の隣に建立した法成寺阿弥陀堂内で儀式をしながら逝ったという。この法成寺は京極御堂とも呼ばれ、道長が御堂関白と呼ばれる由来となっている。


法成寺跡

道長が最後を迎えた法成寺跡(京都府京都市)

  • 宇治陵(うじりょう・うじのみささぎ)は宇治市木幡(うじしこはた)付近に古墳時代以降造られた300以上点在している古墳・陵墓の総称。平安時代には藤原北家一族の埋葬地となっていたことから、当主だけでなく一族から入内した天皇の妃などが眠っている。ただ藤原氏の衰えとともに墓は放置され荒廃していった結果、陵墓それぞれの被葬者が不明となり現在に至っている。
  • 32号墳の被葬者を道長であるとするのはあくまで説のひとつであり、確定はしていない。道長の子・藤原頼通が浄妙寺の南大門から道長の墓に参ったとの記述が残されており、その後発見された浄妙寺跡の位置関係からそのように推定されている。

見どころ・おすすめ

  • この周辺に宇治陵1号墳から37号墳まで点在している。また、道長が藤原氏の菩提を弔うため創建した浄妙寺跡もすぐ近く。

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宇治陵 https://rekishidou.com/ujiryo/ https://rekishidou.com/ujiryo/#respond Fri, 12 May 2023 05:11:59 +0000 https://rekishidou.com/?p=12218 京都府宇治市にある古墳群および平安時代の藤原氏一族の墳墓。そのひとつである1号墳で、宇治陵の総遥拝所ともなっている。

歴史・概略

  • 宇治陵(うじりょう・うじのみささぎ)は南北約1.8Km、東西約0.9Kmの範囲に広がる古墳・陵墓の総称。古墳時代の円墳や前方後円墳、平安時代藤原北家一族やそこから入内した女性、その皇子など300以上の陵墓が含まれる。
  • 明治10年(1877年)、宮内庁が17陵3墓を木幡陵に指定、現在は宇治陵となり37個所が宮内庁の管理下に置かれている。それぞれ1号墳から37号墳までの番号が付けられており、この1号墳は宇治陵の中央付近にあたる。
  • ただ陵墓の被葬者は特定されておらず、それぞれ誰が眠っているかは不明。被葬者とされている人物が宇治陵とはまったく別の場所に埋葬されている可能性すらある。いちおう32号墳が藤原道長、34号墳が藤原冬嗣、35号墳が藤原時平、36号墳が藤原基経であるといわれている。
  • 宮内庁の立て札には20名(17陵3墓)の名が記されている。
    (陵)宇多天皇女御中宮 温子
    (陵)醍醐天皇皇后 穏子
    (陵)村上天皇皇后 安子
    (陵)冷泉天皇女御贈皇太后 懐子
    (陵)冷泉天皇女御贈皇太后 超子
    (陵)円融天皇皇后 遵子
    (陵)円融天皇皇后 媓子
    (陵)円融天皇女御尊称皇太后 詮子
    (陵)一条天皇皇后 彰子
    (陵)三条天皇皇后 娍子
    (陵)三条天皇皇后 妍子
    (陵)後一条天皇皇后 威子
    (陵)後朱雀天皇即位前妃贈皇太后 嬉子
    (陵)後冷泉天皇皇后 寛子
    (陵)後冷泉天皇皇后 歓子
    (陵)後三条天皇即位前妃贈皇太后 茂子
    (陵)堀河天皇女御贈皇太后 苡子
    (墓)宇多天皇皇子 敦実親王
    (墓)冷泉天皇皇子 敦道親王
    (墓)後朱雀天皇女御准后 藤原生子
  • 宇治陵宮内庁立札

    宇治陵1号墳に掲げられている宮内庁の立札

  • 墳墓の西側入り口付近には藤原氏塋域と書かれた石碑が立てられている。塋域(えいいき)とは墓所のことであり、ここには藤原氏8名の名が刻まれている。
    閑院贈太政大臣 冬嗣
    昭宣公関白 基経
    本院贈太政大臣 時平
    法興院摂政 兼家
    南院関白 道隆
    法成寺関白 道長
    宇治関白 頼通
    後宇治関白 師實(師実)
  • 藤原氏塋域碑

    宇治陵1号墳前にある藤原氏塋域碑

見どころ・おすすめ

  • 藤原氏塋域碑の裏面に「伝寛弘2年造立浄妙寺堂桂礎石 木幡区供与石塔婆共」との記述があり、真相は不明だが寛弘2年(1005年)に道長によって建立された浄妙寺の礎石を利用したということらしい。
  • 周辺にはその浄妙寺跡のほか、1号から37号までの宇治陵がある。

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二条院候補地(陽成院跡) https://rekishidou.com/yozein/ https://rekishidou.com/yozein/#respond Thu, 04 May 2023 10:27:30 +0000 https://rekishidou.com/?p=14344 平安時代の陽成上皇が御所とした邸宅跡。また、源氏物語の主人公である光源氏の邸宅のひとつである二条院の候補地ともなっている。

歴史・概略

  • 陽成天皇(ようぜいてんのう)は平安時代初期に在位した第57代天皇。暴君であったともいわれており、宮中での変死事件をきっかけに退位させられた。その結果、大叔父にあたる光孝天皇が即位し、皇統が移されることとなった。
    ただ、事件については謎が多く、実際は関係が悪かった藤原基経(ふじわら・もとつね/史上初の関白に就いたとされる実力者)によるでっち上げで、事件処理の正当性を保つために暴君としたとの見方もある。
  • 元慶8年(884年)、陽成天皇が譲位し、当地に遷って御所とした。屋敷は東西1町南北2町、案内板が立てられているのはちょうど真ん中あたりで、ここから北と南に1町の範囲に及ぶ。上皇崩御後は悪評を嫌ってか積極的に活用はされず、北側半分は宅地に、南側半分は荒れるに任された。
  • 源氏物語二条院は光源氏の主要な屋敷であり、母である桐壺更衣(きりつぼのこうい)の里内裏を光源氏が伝領し元服後に移り住んだ場所。
    陽成院の荒れるに任された南側の屋敷が二条院にあてられているが、説はほかにもあり確定はしていない。

見どころ・おすすめ

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向島城本丸址 https://rekishidou.com/mukaijimajo/ https://rekishidou.com/mukaijimajo/#respond Thu, 27 Apr 2023 10:05:13 +0000 https://rekishidou.com/?p=7870 京都府京都市にあった安土桃山時代の城。ごく短期間ではあるが豊臣秀吉徳川家康が一時期居城とした場所。

歴史・概略

  • 天下統一を果たした豊臣秀吉は関白職とともに自邸の聚楽第を甥の豊臣秀次に譲り、自身は新たに伏見城(指月伏見城)を築城し移り住んだ。向島城(むかいじまじょう)はその伏見城のすぐ南側に築かれた城で、伏見城の支城のひとつ。
  • 伏見城南側には今も宇治川がすぐそばを流れているが、築城当時この付近は川幅が大きく巨椋池(おぐらいけ)と呼ばれる湖が広がっていた。この巨椋池の中にはいくつもの島が点在し、向島城はそのひとつの島に築かれた水城である。
  • もともとこの場所には徳川家康の屋敷があり、そこで行われた宴に呼ばれた秀吉がこの地を気に入って築城したともされる(案内板より)。
  • 文禄5年(1596年)、慶長伏見地震が発生し伏見城が倒壊する被害を受けた。秀吉は比較的被害が少なかった向島城に移り、木幡山に新たな城(木幡山伏見城)を築くまで居城とした。
  • 秀吉が亡くなると、禁止していたはずの大名間の婚姻を結ぶなど家康の勝手な行動が目立ち始める。これを政権内の前田利家石田三成らが糾弾し一触即発の事態となったが、最終的に家康が向島城に移ることで決着した。
  • 元和5年(1619年)、伏見城とともに廃城が決定。のちに廃城となった。
  • 現在、巨椋池もすべて埋め立てられており、城の遺構はまったく見当たらない。ただ、「向島本丸町」や「向島二ノ丸町」など、町名に名前が残っている。
  • 築城:文禄3年(1594年)
  • 廃城:元和5年(1619年)以降
  • 築城主:豊臣秀吉
  • 構造:平城
  • 主な城主:豊臣秀吉・徳川家康
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大坂冬の陣 佐竹義宣本陣跡(若宮八幡大神宮) https://rekishidou.com/satakehonjin/ https://rekishidou.com/satakehonjin/#respond Tue, 04 Apr 2023 11:40:22 +0000 http://rekishidou.com/?p=2732 戦国最後の戦いとなった「大坂の陣」において、佐竹義宣が本陣とした場所。

歴史・概略

  • 大坂の陣は天下人となった徳川家康とその主筋である豊臣秀頼との間で慶長19年(1614年)11月 から慶長20年(1615年)5月にかけて行われた戦い。戦闘は大きく2回に分けられ、前半を「冬の陣」、後半を「夏の陣」と呼ぶ。
  • 家康は全国の大名に出陣を要請、出羽国久保田藩(秋田藩)藩主佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)も大阪に参陣した。豊臣軍は大阪城周辺にいくつかの砦を構築しており、義宣は大阪城北東約2Kmの場所にある今福砦の攻略を命じられた。
  • 慶長19年(1614年)11月26日、夜明けとともに戦いの火ぶたが切られ、一旦は佐竹軍が砦の制圧に成功。しかし木村重成(きむら・しげなり)後藤基次(ごとう・もとつぐ)など豊臣軍の援軍到着により佐竹軍は後退、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)らの助けを借りてようやく豊臣軍を追い返した。一連の戦いは今福の戦いと呼ばれ、佐竹軍は多くの死傷者を出したという。
  • この戦いの際、義宣が本陣をおいたのが若宮八幡大神宮で、戦勝を祈願したと伝わっている。また戦後には当社に矢を奉納したが、残念ながら明治に発生した洪水によって流失してしまったという。
【冬の陣 おもな戦い】

  • 木津川口の戦い
  • 今福の戦い
  • 鴫野の戦い
  • 博労淵の戦い
  • 野田・福島の戦い
  • 真田丸の戦い

【夏の陣 おもな戦い】

見どころ・おすすめ

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大坂冬の陣 今福・蒲生の戦い跡 https://rekishidou.com/imafukugamo/ https://rekishidou.com/imafukugamo/#respond Mon, 03 Apr 2023 06:19:39 +0000 http://rekishidou.com/?p=2730 戦国の覇者となった豊臣家の最終決戦「大坂の陣」における激戦地のひとつ。

歴史・概略

  • 碑文「大坂冬の陣 古戦場 今福 蒲生の戦い跡」「後藤基次 木村重成 奮戦の地跡」
  • 後藤基次(ごとう・もとつぐ)は戦国時代末期の武将で通称は後藤又兵衛。もともと筑前国福岡藩黒田家の家臣だったが、のちに出奔。「大坂の陣」の際に大阪城に入った浪人のひとりで大坂城五人衆に数えられる。
  • 木村重成(きむら・しげなり)は戦国時代末期の武将で豊臣家の家臣。「大坂の陣」において活躍。
  • 江戸に幕府を開き豊臣秀吉亡きあとの天下を掌握した徳川家康は、最後の大仕事として豊臣家との決着を決断。家康は全国諸大名に発令し、いよいよ「大坂の陣」が始まった。一方の豊臣秀頼は大阪城の北東約2Km、旧大和川をはさんで北岸の今福(いまふく)村と南岸の鴫野(しぎの)村に砦を設置し徳川軍の来襲に備えた。
  • 徳川軍は今福村に付け城を構築するため、まずは付近にあった今福砦に出羽久保田藩佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)を、鴫野砦に出羽米沢藩上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)をそれぞれ派遣し攻略を命じた。
  • 慶長19年(1614年)11月26日未明、堀と4重の柵に守られた今福砦を佐竹軍が攻撃、今福の戦いが始まった。時を同じくして鴫野砦でも戦いが始まり、こちらは鴫野の戦いと呼ぶ。
  • 佐竹軍は砦をほぼ制圧したものの、大阪城より木村重成後藤基次らの援軍が到着すると形勢は逆転、佐竹軍は多くの死傷者を出した。佐竹軍は鴫野砦で戦っていた上杉景勝に援軍を要請、豊臣軍は上杉軍や堀尾忠晴榊原康勝らの攻撃を受けようやく撤退した。
【冬の陣 おもな戦い】

  • 木津川口の戦い
  • 今福の戦い
  • 鴫野の戦い
  • 博労淵の戦い
  • 野田・福島の戦い
  • 真田丸の戦い

【夏の陣 おもな戦い】

見どころ・おすすめ

  • 西に数百メートルの場所にこの戦いで本陣とした佐竹義宣本陣跡碑が立てられている。
  • また、この場所から少し南に行ったところに鴫野古戦場跡および上杉景勝本陣跡がある。

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大阪冬の陣 上杉景勝本陣之地(八劔神社) https://rekishidou.com/uesugijin/ https://rekishidou.com/uesugijin/#respond Sun, 02 Apr 2023 06:10:39 +0000 http://rekishidou.com/?p=7572 戦国最後の大決戦となった「大坂の陣」において、上杉景勝が本陣とした場所。

歴史・概略

  • 豊臣秀吉の死後、江戸に幕府を開き天下人となった徳川家康はかつての主家・豊臣家に対し宣戦を布告、「大坂の陣」が始まった。戦いは慶長19年(1614年)11月から12月慶長20年(1615年)4月から5月まで大きく2回に渡り行われ、前半を「大坂冬の陣」後半を「大坂夏の陣」という。双方合わせて冬は約36万、夏は約15万もの兵力が全国から動員された。
  • 豊臣軍は大阪城の北東約2Kmの旧大和川北側にある今福(いまふく)村と南側の鴫野(しぎの)村に砦を構築、防戦の拠点とした。対して徳川軍は大阪城への足掛かりとして今福村に付け城を置くことを計画、付近にあった2か所の砦攻略を開始した。今福村攻略には出羽久保田藩佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)が、鴫野村には出羽米沢藩上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)がそれぞれ命じられた。
  • 慶長19年(1614年)11月26日早朝、今福村と鴫野村でほぼ同時に戦いが始まり、上杉軍は2000の兵が守る砦を攻め落とした。その後大野治長ら豊臣軍の援軍が到着すると一時的に混戦状態となったものの、砦を死守し豊臣軍は撤退した。この鴫野村で行われた一連の戦いを「鴫野の戦い(しぎののたたかい)」と呼ぶ。また、今福村での戦いは「今福の戦い」と呼ばれる。
  • 「鴫野の戦い」の際、上杉景勝が本陣を置いたのが八劔神社(やつるぎじんじゃ)境内といわれており、境内には本陣跡を示す石碑が立てられている。
【冬の陣 おもな戦い】

  • 木津川口の戦い
  • 今福の戦い
  • 鴫野の戦い
  • 博労淵の戦い
  • 野田・福島の戦い
  • 真田丸の戦い

【夏の陣 おもな戦い】

見どころ・おすすめ

  • 八劔神社を西に出たところにある城東小学校脇に鴫野古戦場碑が立てられている。

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大坂冬の陣 鴫野古戦場跡 https://rekishidou.com/shiginokosenjo/ https://rekishidou.com/shiginokosenjo/#respond Sat, 01 Apr 2023 10:49:51 +0000 http://rekishidou.com/?p=2716 江戸時代初期、豊臣家と徳川家の間で起こった「大坂の陣」における激戦地のひとつ。

歴史・概略

  • 豊臣秀吉の死後、天下を掌握した徳川家康は政権維持最大の不安材料となっていた豊臣家の排除を決意。方広寺梵鐘事件をきっかけにして家康は諸国大名に豊臣討伐を命じ、ついに大坂冬の陣が勃発した。このときの徳川軍の動員兵力は約20万。対する豊臣軍の兵力は約10万といわれる。
  • 豊臣軍は大阪城の北東約2Km、旧大和川を挟んで北側と南側にある今福(いまふく)村と鴫野(しぎの)村それぞれ砦を築いて守りを固めた。対する家康は今福に付け城を構築するため、今福の攻略を出羽久保田藩佐竹義宣に、鴫野の攻略を出羽米沢藩上杉景勝(後詰:堀尾忠晴丹羽長重榊原康勝)に命じた。
  • 鴫野の砦は3重の柵で囲まれ、兵力は約2000。慶長19年(1614年)11月26日早朝、上杉軍が砦を攻撃し守将の井上頼次は討死、砦は陥落した。その後大野治長率いる豊臣軍の援軍が到着すると形勢が逆転。乱戦状態となり上杉軍は一時押し返されるなどしたものの、上杉軍はなんとかこれを制し豊臣軍は撤退した(鴫野の戦い)。
【冬の陣 おもな戦い】

  • 木津川口の戦い
  • 今福の戦い
  • 鴫野の戦い
  • 博労淵の戦い
  • 野田・福島の戦い
  • 真田丸の戦い

【夏の陣 おもな戦い】

見どころ・おすすめ

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桓武天皇 柏原陵 https://rekishidou.com/kanmutennoryo/ https://rekishidou.com/kanmutennoryo/#respond Tue, 28 Mar 2023 07:08:59 +0000 https://rekishidou.com/?p=9398 奈良時代後期から平安時代初期にかけて在位した桓武天皇の陵墓。平将門や平清盛など桓武平氏の祖であり、平安京への遷都を行ったことで知られる。

歴史・概略

  • 桓武天皇(かんむてんのう)。第50代天皇。山部(やまべ)日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてりのみこと)
  • 在位:天応元年(781年) ~ 延暦25年(806年)
  • 父:光仁天皇 母:高野新笠(たかののにいがさ/百済武寧王の子孫といわれる和氏の一族)
  • 御陵名:柏原陵(かしわばらのみささぎ)
  • 墳形:円丘
  • 天平9年(737年)、天智天皇の孫にあたる白壁王(しらかべおう/後の光仁天皇)の第一皇子として誕生。
  • 宝亀元年(770年)、父・光仁天皇(こうにんてんのう)が即位。
  • 宝亀4年(773年)、皇太子となる。
  • 天応元年(781年)、光仁天皇の譲位により践祚・即位。
  • 延暦3年(784年)、長岡京遷都。
  • 延暦4年(785年)、藤原種継暗殺事件により弟の早良親王(さわらしんのう)が皇太子を廃された上、流罪。後に憤死した。
  • 延暦12年(793年)、長岡京で災害や不幸が重なったため再遷都を決定。早良親王の祟りであるともいわれる。
  • 延暦13年(794年)、平安京遷都。
  • 延暦20年(801年)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍として東北に派遣。蝦夷を平定。
  • 延暦25年(806年)、崩御。宝算70。
  • 陵は天皇の希望により宇多野(うたの)とされていたものの、占いによって柏原陵に埋葬された。その後年月の経過によって場所が不明となり、幕末になって現在地と定められた。ただ根拠は薄いとされ、正確な場所の特定には至っていない。

見どころ・おすすめ

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槇島城跡 https://rekishidou.com/makishimajo/ https://rekishidou.com/makishimajo/#respond Tue, 24 Jan 2023 02:13:36 +0000 http://rekishidou.com/?p=5448 京都府宇治市にあった城。ほかに槙島城とも表記する。
室町幕府滅亡のきっかけとなった槇島城の戦いが行われた地。

歴史・概略

  • 琵琶湖から流れ出る宇治川沿いに造られた城。かつてこのあたり一帯には巨椋池(おぐらいけ)と呼ばれる湖が存在しており、槙島城は槇島の名が示す通り湖にあった島に築かれた。周辺は水路に囲まれ、まさに天然の要害ともいえる城であった。
  • 元亀4年(1573年)、槇島城の戦い。
    この戦いの起こる5年前、織田信長が上洛し足利義昭を将軍へと押し上げた。その後しばらくは良好な関係が続いたものの、この頃には関係が悪化し対立を深めていた。信長はこの頃四方に敵を抱えた四面楚歌といった状況であり、義昭はとうとう信長に見切りをつけ、家臣真木島昭光の居城槙島城において挙兵した。
    しかし、圧倒的な兵力差によってすぐに鎮圧、義昭は京を追放され事実上室町幕府は滅亡した。
  • その後は細川昭元塙直政井戸良弘らが相次いで城主となったが、豊臣秀吉がこの北側に伏見城を築城したことにより、戦略的価値は薄れ文禄3年(1594年)に廃城となった。
  • 今現在、巨椋池は完全に埋め立てられ周辺も宅地開発が進んでいて当時の面影は全くない。ただかつてそこに城があったことを示す石碑が立てられているのみである。
  • 築城:承久3年(1221年)
  • 廃城:文禄3年(1594年)
  • 築城主:長瀬左衛門
  • 構造:平城
  • 主な城主:真木島氏(槇島氏)
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