宮城県多賀城市にあった古代城柵跡。
- 築城:神亀元年(724年)
- 廃城:不明
- 築城主:大野東人
- 構造:古代城柵
- 主な城主:-
- 日本100名城
- 神亀元年(724年)、大野東人(おおののあずまびと)により築城され、陸奥国府や鎮守府が置かれ奈良時代から平安時代にかけて政治や軍事の中心となった。「伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱」や貞観の大地震などにより焼失・倒壊を繰り返しその度に再建され、坂上田村麻呂の蝦夷征討の際や「前九年の役」、「後三年の役」の際にも軍事的拠点として機能した。
- この場所は多賀城の中心にあたり政庁跡が確認されている。
施設データ
地図 |
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住所:宮城県多賀城市市川城前 多賀城跡 周辺の史跡を探す |
主な施設 |
正殿跡・後殿跡・東脇殿跡・西脇殿跡・南門跡 |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
・JR「国府多賀城」駅 ・駐車場あり |
コメント
神亀元年に大野東人は按察使や鎮守将軍に任じられていません。多賀城碑文は虚偽が記されています.続日本記によれば多賀柵は賀美郡部内にあった柵で後に城になった。780年に伊治城の乱で国司等が多賀城へ逃げ込んだのは近くにあったからです。栗原郡と賀美郡は隣合わせ。785年に大伴家持は名取以南十四郡から遠くはなれた所に多賀があるので權郡を置くことを提言しています。多賀が名取郡からも遠く離れていたことを証しています。国の特別史跡多賀城は名取郡近くにあり続日本記に記された多賀城ではありません。江戸時代に多賀城跡と比定した根拠の多賀城碑は賀美郡から遠く離れた所で出土しました。賀美郡の碑が名取郡近くから出土する道理がありません。碑文も虚偽が記されています。拠って、多賀城跡とされる遺跡は続日本記に記された多賀城跡遺跡ではありません。吾妻鑑に多賀国府とあり発掘調査が行われ該当時代より以前に廃絶された遺跡と判明しました。多賀国府など存在しません.勿論多賀城は鎮守府や国府でもありません。