鎌倉時代から室町時代へと至る転換期、後醍醐天皇側の新田義貞と天皇に反発する足利尊氏との間で起こった「箱根・竹ノ下の戦い」が行われた場所。
歴史・概略
- 鎌倉幕府を倒し、新たな政権となる「建武の新政」をスタートさせた後醍醐天皇であったが、その政権運営は武士たちの反発を招くものであった。その結果、各地で北条勢力が蜂起し、鎌倉を占拠するに至った(中先代の乱)。
- 足利尊氏(あしかが・たかうじ)はこの乱を鎮めるため天皇の勅を得ないまま鎌倉に向け出陣、北条勢力を一掃し乱を鎮圧した。しかし、乱の鎮圧後も尊氏は鎌倉を動かず、尊氏の自立を恐れた天皇は新田義貞(にった・よしさだ)に対し尊氏追討の宣旨を下した。
このことによって、天皇と尊氏の関係は手切れとなり、天皇と足利氏の戦い「延元の乱(えんげんのらん)」が勃発することとなった。ほかに「建武の乱(けんむのらん)」とも呼ばれる。 - 天皇から尊氏追討の命令が下った状況に、尊氏は寺に入って髷を落とし、天皇に逆らう意思がないことを示した。しかし一方では、東海道を下る新田軍に対し尊氏の弟・足利直義(あしかが・ただよし)が迎撃に出たが、矢作川や手越河原などで敗走、追討軍は箱根や竹之下に進み鎌倉のすぐ西にまで迫った。
- 建武2年12月11日(1336年1月24日)、各地で味方が敗れ新田軍が鎌倉に迫ってきた状況に尊氏はついに出陣を決断、竹之下に陣を張っていた義貞の弟・脇屋義助(わきや・よしすけ)を奇襲し大勝した。箱根では直義軍が義貞に敗れたが、尊氏の出陣により足利軍への寝返りが続出するなど新田軍は総崩れとなり、義貞は敗走した。
このあと足利軍は勝利の勢いに乗り、建武政権に反感を抱く武将たちを味方につけながら一気に都に攻め上った。 - 戦いは各地で半年ほど続いたが、最終的に尊氏が京都を制圧、室町幕府を開き尊氏は初代将軍に就任した。
- 「延元の乱(建武の乱)」におけるおもな戦い
矢作川の戦い/手越河原の戦い/箱根・竹ノ下の戦い/第一次京都合戦/豊島河原の戦い/多々良浜の戦い/湊川の戦い/第二次京都合戦/近江の戦い
史跡情報
地図 |
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【場所】 静岡県駿東郡小山町竹之下 【付近の史跡】
[ 南東・約17km ] 石垣山城跡(小田原征伐)
[ 東・約18km ] 小田原城
[ 南東・約19km ] 与一塚(佐奈田霊社)
[ 南東・約19km ] 石橋山古戦場(源平合戦)
[ 南東・約19km ] 文三堂(石橋山の戦い)
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主な施設 |
石碑のみ |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・JR「足柄」駅から約0.3Km 【バス】 ・コミュニティバス「足柄支所」バス停 【マイカー】 ・東名高速「足柄スマートIC」から約3Km |