京都府宇治市にある平安時代に造られた墳墓のひとつ。平安時代中期の公卿・藤原道長の墓とする説がある。
歴史・概略
- 【藤原道長】ふじわら・みちなが(別名:御堂関白)
- 【生没年】康保3年(966年)- 万寿4年(1028年)
- 【官位】従一位・太政大臣・摂政(後一条天皇)
- 【素性】藤原北家 藤原兼家(摂政・関白・太政大臣)の五男。兄たちが相次いで亡くなり政権を掌握、娘たちを入内させ後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の外祖父となった。
- 【人物】剛腕政治家である一方、歌の会を催したり多くの歌を残す。さらに源氏物語の作者紫式部を見出すなど文化面でも才能を発揮、作中の光源氏のモデルであるともいわれている。20年以上に渡って書き綴った日記『御堂関白記』は国宝に指定されている。道長をあらわすものとして『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば』の句はあまりにも有名。
最後は自邸の隣に建立した法成寺阿弥陀堂内で儀式をしながら逝ったという。この法成寺は京極御堂とも呼ばれ、道長が御堂関白と呼ばれる由来となっている。
- 宇治陵(うじりょう・うじのみささぎ)は宇治市木幡(うじしこはた)付近に古墳時代以降造られた300以上点在している古墳・陵墓の総称。平安時代には藤原北家一族の埋葬地となっていたことから、当主だけでなく一族から入内した天皇の妃などが眠っている。ただ藤原氏の衰えとともに墓は放置され荒廃していった結果、陵墓それぞれの被葬者が不明となり現在に至っている。
- 32号墳の被葬者を道長であるとするのはあくまで説のひとつであり、確定はしていない。道長の子・藤原頼通が浄妙寺の南大門から道長の墓に参ったとの記述が残されており、その後発見された浄妙寺跡の位置関係からそのように推定されている。
見どころ・おすすめ
史跡情報
地図 |
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【場所】 京都府宇治市木幡檜尾 【付近の史跡】
[ 北西・約0.4km ] 藤原道長建立浄妙寺跡
[ 西・約0.5km ] 宇治陵36号墳(藤原基経の墓)
[ 南西・約0.5km ] 宇治陵
[ 北・約0.7km ] 宇治陵34号墳(赤塚・伝 藤原冬嗣夫妻墓所)
[ 北・約0.8km ] 宇治陵35号墳(藤原時平の墓)
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主な施設 |
墳墓 |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・JR「木幡」駅から約0.6Km ・京阪電車「木幡」駅から約0.8Km 【バス】 ・京都京阪バス「金草原」「木幡小学校」バス停 【マイカー】 ・京滋バイパス「宇治東IC」から約3Km |