藤原定家 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Mon, 16 Oct 2023 01:11:59 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 藤原定家 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 藤原定家 一条京極第跡 https://rekishidou.com/teikatei-2/ Sun, 15 Oct 2023 11:26:17 +0000 https://rekishidou.com/?p=14941 平安時代末期から鎌倉時代初期の貴族・藤原定家の邸宅跡。
貴族というより歌人としての名声が高く、特に小倉百人一首の選者として広く知られている。

歴史・概略

  • 【藤原定家】ふじわら・さだいえ/ふじわら・ていか
  • 【生没年】応保2年(1162年)-仁治2年(1241年)
  • 【官位】正二位・権中納言
  • 【素性】藤原北家御子左流 藤原俊成の二男。御子左家(みこひだりけ)は藤原道長の六男 藤原長家を祖とする一族で、後に二条家や冷泉家、京極家などに分かれた。定家は道長から数えて5代目の子孫にあたる。
  • 【人物】貴族で歌人でもある俊成の子として生まれ、才能を開花。多くの歌を残し、後に歌聖と称えられた。新古今和歌集、新勅撰和歌集、小倉百人一首の編纂に携わったほかにも、源氏物語や土佐日記などの古典の研究にも成果を残している。後鳥羽上皇源実朝などとも歌を通じて親交を結んだという。
  • 碑文「此付近 藤原定家 一条京極第跡」
  • 一条京極第(いちじょうきょうごくてい)は定家が晩年に暮らした屋敷で承久年間(1219年~1222年)以降(58歳ごろか)に移り住み、亡くなるまでの20年ほどを過ごした。屋敷の名から京極殿や京極中納言などと称され、定家没後は嫡男の為家に伝領された。
  • 場所は平安京東京極大路と一条通りの北東で、現在の京都御苑東側、京極小学校あたりとされており石碑が立てられている。ただ、この場所からはっきりとした屋敷の痕跡が見つかったというわけではなく、定家が書き残した日記『明月記』などの記録からあくまで推定されたもの。ちなみに京極小学校はノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士の出身校でもある。
  • 定家邸周辺図

    藤原定家邸周辺図(案内板より)

見どころ・おすすめ

  • ここには石碑があるのみで特に何もない。
  • 京都御苑散策のついでにでも寄ればよいと思うが、周辺には道長の土御門第跡や道長が建立した法成寺跡、源氏物語を執筆したという紫式部邸宅跡(蘆山寺)などがある。
  • 定家の墓所はこの場所から1キロほど北西にいった臨済宗大本山の相国寺にある。
  • ここから南に少し行った夷川通あたりにも京極邸跡碑が立てられているが、これは記録の解釈の違いによるものらしい。

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藤原定家京極邸址 https://rekishidou.com/teikatei/ https://rekishidou.com/teikatei/#respond Tue, 27 Aug 2019 01:36:51 +0000 http://rekishidou.com/?p=7153 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・藤原定家の屋敷跡。

歴史・概略

  • 藤原定家(ふじわら・ていか/さだいえ)は藤原北家の流れをくむ御子左家(みこひだり)の一族で、御堂関白と呼ばれた藤原道長の5代後の子孫にあたる。歌人として才能を発揮し『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』の撰者として知られている。この場所には定家の京極邸があり、そのことから京極中納言と呼ばれた。
  • 鎌倉時代初期、定家と親交のあった蓮生(宇都宮頼綱)から嵯峨野にあった別荘・中院山荘の襖を飾るための色紙の作成を定家が依頼される。この求めに応じた定家は一人一首ずつ100首を選び、後に『小倉百人一首』と呼ばれるようになった。
  • ただ、屋敷の正確な場所は特定されておらず、定家が残した日記『明月記』の記述などから推定されている。定家には冷泉と高倉の屋敷があったとされるが、同一とみるか別とみるかによっても解釈が変わるため特定が困難なようである。
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