法成寺跡(藤原道長創建) | 場所と地図 – 歴史のあと

法成寺跡(藤原道長創建)

法成寺跡 寺社
法成寺跡
ジャンル:寺社
史跡年代:平安時代 ー 室町時代

法成寺(ほうじょうじ)は平安時代から鎌倉時代にかけて、京都にあった仏教寺院。栄華を極めた藤原道長が創建し、最後を迎えた場所である。

歴史・概略

  • 碑文「従是東北 法成寺址」
    京都鴨川の西岸、この石碑の北側2町四方以上に及んだ。
  • 寛仁3年(1019年)に出家した藤原道長が自邸である土御門邸(つちみかどてい)の東隣に九体阿弥陀堂の建立を発願、翌年に落慶した。創建当時は無量寿院と称している。
  • 以後も次々と堂宇の整備を行っており、鴨川から見える大伽藍の姿は宇治にある平等院のモデルになったともいわれている。まさに当時の道長の権力の大きさを表していたといえる。
  • この寺院は京極御堂とも呼ばれ、道長が「御堂関白(みどうかんぱく)」と呼ばれるきっかけともなった。
  • 治安2年(1022年)、寺名を法成寺に改める。
  • 万寿4年(1028年)、道長が阿弥陀堂において死去。享年62歳。
  • 天喜元年(1053年)、道長の嫡子・藤原頼通(ふじわら・よりみち)によって平等院鳳凰堂が建てられる。同じく浄土式庭園であった法成寺をモデルに造られたといわれる。
  • 承保元年(1074年)、道長の娘で一条天皇の中宮として後一条天皇後朱雀天皇を産み道長の権力基盤を作った藤原彰子(上東門院)が阿弥陀堂において死去。享年87歳。
  • 道長の死後も新たな堂宇が建てられるなどしばらくは繁栄が続いた。その後寺院は度々焼失するなどの被害を受けその度に再建されていったが、鎌倉時代になり公家から武士へと権力が移り、それに合わせて藤原氏の力が衰えていくと被災後の再建はされなくなり廃れてしまった。
  • 貞和5年/正平4年(1349年)、足利直義高師直が政権内で対立し師直と弟の高師泰が挙兵。この付近に布陣し直義が逃げ込んだ足利尊氏の屋敷を取り囲んだ。後に和解が成立するも政権は分裂「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」へと発展した。

見どころ・おすすめ

  • ここは石碑のみなので京都御苑に行ったついでにでも回るのがよいかと。

史跡情報

地図
【場所】
京都府京都市上京区荒神口通寺町東入る
主な施設
石碑のみ
利用時間
常時
定休日
無休
料金
無料
交通
【電車】
・京阪電車「神宮丸太町」駅から約0.8Km
・市営地下鉄「丸太町」駅から約1.2Km
・叡山電鉄「出町柳」駅から約1.4Km

【バス】
・市バス「荒神口」「府立医大病院前」「河原町丸太町」バス停

【マイカー】
・名神高速「京都南IC」から約10Km
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