鳥取藩 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Sun, 19 Mar 2023 03:10:43 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 鳥取藩 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 鳥取城跡 https://rekishidou.com/tottorijo/ https://rekishidou.com/tottorijo/#respond Mon, 21 Mar 2016 23:58:17 +0000 http://rekishidou.com/?p=2665 鳥取県鳥取市にある城。羽柴秀吉の中国攻めにおいて、籠城戦を展開し多くの餓死者を出したことで知られる。

歴史・概略

  • 築城:天文年間(1532年 ~ 1555年)
  • 廃城:明治4年(1871年)
  • 築城主:但馬山名氏?
  • 構造:梯郭式・平山城・山城
  • 主な城主:山名氏・吉川氏・宮部氏・池田氏
  • 日本100名城
  • 戦国時代の中期、因幡守護であった山名氏によって築城されたとされる。
  • 天正8年(1580年)、天下を狙う織田信長の命を受けた秀吉が、山名豊国が守る鳥取城を包囲、約3か月間の籠城の末に豊国は降伏した。
  • しかし、すぐに毛利氏の手に落ち、今度は吉川経家との間で再び籠城戦となった。このときの戦いは「渇え殺し(かつえごろし)」と呼ばれ、飢えに苦しんだ人たちが人肉を食べるほど凄惨を極めたという。
  • 天正10年(1582年)、宮部継潤(みやべ・けいじゅん)が城代となり、後に城主となった。
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦い」において西軍に与したため、東軍の攻撃を受け開城。
  • 慶長5年(1600年)、池田長吉(池田恒興の三男)が入府。
  • 元和3年(1617年)、池田光政が入府。
  • 寛永9年(1632年)、池田光仲が入府。以降、明治に至るまで池田氏(忠雄流)が藩主を務めた。
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米子城跡 https://rekishidou.com/yonagojo/ https://rekishidou.com/yonagojo/#respond Thu, 05 Apr 2018 02:06:00 +0000 http://rekishidou.com/?p=6853 鳥取県米子市にあった城。
江戸時代の米子藩藩庁で、廃藩後は鳥取藩の支城となった。久米城、湊山金城とも呼ばれる。

歴史・概略

  • 応仁元年(1467年)頃、山名宗之(宗幸)が飯山に砦を築いたことに始まるとされる。
  • 大永4年(1524年)、尼子氏の支配を受ける。
  • 永禄5年(1562年)頃、毛利氏が制圧し山名氏の支配となる。
  • 永禄12年(1569年)、再び反毛利と転じたが吉川元春によって落城。
  • 天正19年(1591年)、吉川広家が城主となり、湊山に築城。
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦い」の後、広家は転封、中村一忠が入封した。
  • 慶長14年(1609年)、一忠が急死し断絶したため、加藤貞泰が入封。
  • 元和3年(1617年)、貞泰が伊予国大洲に転封、米子は池田氏の所領となったため、米子藩は廃藩となり鳥取藩の支城となる。
  • 築城:応仁元年(1467年)頃
  • 廃城:明治4年(1871年)
  • 築城主:山名宗之?
  • 構造:平山城・梯郭式
  • 主な城主:山名氏、尼子氏、吉川氏、中村氏、加藤氏、池田氏
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