鳥居強右衛門 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Sun, 12 Mar 2023 01:27:40 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 鳥居強右衛門 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 鳥居強右衛門磔死之址(長篠の戦い) https://rekishidou.com/suneemon/ https://rekishidou.com/suneemon/#respond Tue, 29 Mar 2016 05:52:58 +0000 http://rekishidou.com/?p=2926 武田軍と織田・徳川連合軍が戦った「長篠の戦い」の前哨戦となる長篠城攻城戦において、長篠城奥平家臣の鳥居強右衛門が武田軍によって磔(はりつけ)にされた場所。

歴史・概略

  • 長篠城(ながしのじょう)は奥三河にある城で徳川氏と武田氏の間で服属をたびたび変えていた。「長篠の戦い」開戦時点の支配は徳川氏で、城主は奥平信昌
  • 天正3年(1575年)、三河進出を目論んだ武田勝頼が長篠城に侵攻、大軍に取り囲まれ長篠城は落城寸前まで追い込まれてしまう。そのため、長篠城主の奥平信昌は家臣の鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)を呼び、徳川家康に対して窮状を訴えるよう密命を出した。
    強右衛門は密かに城を脱出し無事に岡崎城に到着、家康に援軍を要請した。しかし、使命を果たした強右衛門が長篠城へ帰る途中、武田軍に捕縛されてしまう。
  • 武田軍は長篠城から見える位置に強右衛門を磔にし、「援軍は来ない」と言えば助けると言ったが、強右衛門は「援軍は来る」と叫び城の士気は上がった。しかし強右衛門は怒った武田軍によってその場で殺害されてしまった。
  • このおよそ10日ほど後、長篠にやってきた織田・徳川連合軍と武田軍が激突、武田軍は大敗北を喫することとなった(長篠の戦い)

見どころ・おすすめ

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長篠城跡 https://rekishidou.com/nagashinojo/ https://rekishidou.com/nagashinojo/#respond Mon, 18 Jan 2016 01:22:52 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=576 戦国時代、愛知県新城市にあった城。

歴史・概略

永正5年(1508年)、今川氏と関係が深い菅沼元成(すがぬま・もとなり)によって築城され、菅沼氏の居城となった。その後、今川氏の衰退により東に勢力を伸ばしてきた徳川家康の配下となった。

元亀2年(1571年)、国境を接する武田信玄の三河侵攻を受けいったんは武田氏に下る。しかし、信玄の死によって状況が変化、再び徳川氏配下へと戻った。

天正3年(1575年)には、武田家の跡を継いだ武田勝頼(たけだ・かつより)が再び侵攻、長篠城を取り囲んだ。これが織田・徳川連合軍による「長篠の戦い」へと発展し、武田氏は大敗を喫することとなった。
その後、城主の奥平信昌は戦いによって大きく損壊した長篠城から新城城へと移り、長篠城は役目を終えた。

  • 築城:永正5年(1508年)
  • 廃城:天正4年(1576年)
  • 築城主:菅沼元成
  • 構造:平城
  • 主な城主:菅沼氏・奥平氏
  • 日本100名城
  • 永正5年(1508年)、菅沼元成により築城
  • 元亀2年(1571年)、武田信玄が駿河・三河に侵攻
  • 元亀4年(1573年)、信玄が死去
  • 元亀4年(1573年)、徳川軍の攻撃を受け落城
  • 天正3年(1575年)、武田勝頼が長篠城へ侵攻、および長篠の戦いで武田軍が大敗
  • 天正4年(1576年)、廃城

見どころ・おすすめ

  • この周辺には長篠攻城戦跡が点在し、ここから3Kmほど西側には「長篠の戦い」の史跡が点在している。
  • 長篠城址史跡保存館-長篠攻城戦や「長篠の戦い(設楽原の戦い)」に関する資料館。
  • 新城市設楽原歴史資料館-「長篠の戦い」や火縄銃に関する歴史資料館。
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