戦国時代の終わり、武田軍と織田軍が戦った「長篠の戦い」において織田軍が構築したとされる馬防柵の復元施設。
歴史・概略
- 甲斐の武田信玄が他国侵攻中に息を引き取った後、信玄の四男・武田勝頼(たけだ・かつより)は平安時代より続く名門・甲斐武田家を引き継いだ。勝頼は領国を接する三河支配を狙い天正3年(1575年)、徳川領であった長篠城へと進軍した。
- 織田・徳川連合軍はこれに対抗するため長篠城に向かった。信長は戦いに際し鉄砲3000丁を用意、連吾川の西側一帯に土塁と柵を構築した。そして天正3年5月21日(1575年6月29日)、ついに決戦の火ぶたが切られ織田・徳川軍は向かってくる武田軍を迎え撃った。
- 武田軍はこの戦いによって多くの重臣たちを失い、10000人にも上る犠牲を出すなど大敗を喫したという。
- また、武田家の譜代家老で信玄の側近であった土屋昌次(昌続)は馬防柵を突破しようとしたところに鉄砲を打ち掛かけられ、この付近で戦死したと言われる。
見どころ・おすすめ
史跡情報
地図 |
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【場所】 愛知県新城市竹広 【付近の史跡】
[ 南東・約0.3km ] 甘利信康の墓(長篠の戦い)
[ 東・約0.3km ] 内藤昌豊の墓(長篠の戦い)
[ 北・約0.4km ] 丸山激戦地(長篠の戦い)
[ 南東・約0.4km ] 小幡信貞の墓(長篠の戦い)
[ 南東・約0.5km ] 信玄塚(長篠の戦い)
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主な施設 |
馬防柵・土屋昌次戦死之地碑 |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・JR「三河東郷」駅から約1.4Km 【バス】 ・新城市コミュニティバス「歴史資料館」バス停 【マイカー】 ・新東名高速道路「新城IC」から約2Km ・駐車場あり |