土屋昌次 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Fri, 10 Mar 2023 11:27:00 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 土屋昌次 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 馬防柵・土屋昌次戦死之地(長篠の戦い) https://rekishidou.com/babosaku/ https://rekishidou.com/babosaku/#respond Tue, 05 Apr 2016 00:32:48 +0000 http://rekishidou.com/?p=2909 戦国時代の終わり、武田軍と織田軍が戦った「長篠の戦い」において織田軍が構築したとされる馬防柵の復元施設。

歴史・概略

  • 甲斐の武田信玄が他国侵攻中に息を引き取った後、信玄の四男・武田勝頼(たけだ・かつより)は平安時代より続く名門・甲斐武田家を引き継いだ。勝頼は領国を接する三河支配を狙い天正3年(1575年)、徳川領であった長篠城へと進軍した。
  • 織田・徳川連合軍はこれに対抗するため長篠城に向かった。信長は戦いに際し鉄砲3000丁を用意、連吾川の西側一帯に土塁と柵を構築した。そして天正3年5月21日(1575年6月29日)、ついに決戦の火ぶたが切られ織田・徳川軍は向かってくる武田軍を迎え撃った。
  • 武田軍はこの戦いによって多くの重臣たちを失い、10000人にも上る犠牲を出すなど大敗を喫したという。
  • また、武田家の譜代家老で信玄の側近であった土屋昌次(昌続)は馬防柵を突破しようとしたところに鉄砲を打ち掛かけられ、この付近で戦死したと言われる。

見どころ・おすすめ

  • 新城市設楽原歴史資料館・長篠城址史跡保存館などで長篠城の歴史や「長篠の戦い」の歴史などを解説してくれている。
  • 周辺には関連史跡が点在してるので、回ってみるといい。

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土屋昌次の墓(長篠の戦い) https://rekishidou.com/tsuchiyamasatsuguhaka/ https://rekishidou.com/tsuchiyamasatsuguhaka/#respond Sat, 09 Apr 2016 10:27:33 +0000 http://rekishidou.com/?p=2898 戦国時代、織田信長徳川家康の連合軍と武田勝頼との間に発生した「長篠の戦い」によって戦死した土屋昌次の墓。

歴史・概略

  • 土屋昌次/昌続(つちや・まさつぐ)は、甲斐武田氏の家老で信玄勝頼の二代に仕えた武将である。武田家臣団の中でも特に評価の高い武田二十四将のひとりに数えられる。
  • 武田家の家督を継いだ勝頼が、徳川領であった奥三河の長篠城を攻撃、城を落城寸前に追い込んだ。
    これを助けるため徳川家康は同盟者の織田信長とともに長篠に出陣、長篠城西の設楽原(したらがはら)において両軍が衝突するに至った。
  • 天正3年5月21日(1575年6月29日)、「長篠の戦い」が開戦。
    織田軍は三重に作った馬防柵を構築、昌次はそれを突破しようとしたところで鉄砲を撃ち込まれ亡くなったとされる。亡くなったとされる場所には「土屋昌次戦死之地」の碑が立っている。

見どころ・おすすめ

  • 周辺には「長篠の戦い」に関する史跡が点在しているので、まとめて回るのがおすすめ。
  • 新城市設楽原歴史資料館では「長篠の戦い」や火縄銃に関しての資料が展示がしてある。
  • 3Kmほど東には、この戦いのきっかけとなった長篠城がある。

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