キリシタン | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Mon, 20 Mar 2023 02:33:11 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg キリシタン | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 原城跡 https://rekishidou.com/harajo/ https://rekishidou.com/harajo/#respond Tue, 25 Apr 2017 01:04:21 +0000 http://rekishidou.com/?p=4249 長崎県島原半島南部にあった戦国時代から江戸時代初期にかけての城。
江戸時代に起った争乱「島原の乱」の地として知られる。

歴史・概略

  • 明応5年(1496年)、肥前の戦国大名・有馬貴純(ありま・たかずみ)によって築かれ、他に春城、志自岐原城、日暮城、有馬城とも呼ばれる。
  • 江戸時代初期、松倉氏が入部し一国一城令の下、原城は廃城となった。
  • 寛永14年(1637年)、松倉氏の過度な年貢の取り立てやキリシタンへの弾圧などにより農民一揆が勃発、女性や子供なども含め3万人以上が原城に籠城した(島原の乱)。3か月後、幕府軍は多大な犠牲を出しながらも一揆勢を皆殺しにして鎮圧、原城は徹底的に破壊された。
  • 築城:明応5年(1496年)
  • 廃城:元和2年(1616年)
  • 築城主:有馬貴純
  • 構造:梯郭式・平山城
  • 主な城主:有馬氏
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妙満寺跡・二十六聖人発祥地 https://rekishidou.com/myomanji/ https://rekishidou.com/myomanji/#respond Sat, 18 Mar 2017 02:13:06 +0000 http://rekishidou.com/?p=3224 顕本法華宗の総本山・妙満寺があった場所。

歴史・概略

  • 妙満寺は「応仁の乱」「天文法華の乱」の後この場所に再建されたが、天正11年(1583年)豊臣秀吉の政策によって寺町へと移された。
  • 移転後はフランシスコ会の神父・ペトロ・バプチスタに跡地が与えられ、ここで布教活動を行った。
    しかし、始めはキリシタン(キリスト教)に対して寛容な秀吉であったが、次第に政策を転換していった。その結果、慶長2年(1597年)にこの神父を含むカトリック信者たちは捕らえられ、長崎で処刑された。その後、処刑された者たちは日本二十六聖人として聖人に加えられている。
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元和キリシタン殉教の地 https://rekishidou.com/kirishitanjunkyo/ https://rekishidou.com/kirishitanjunkyo/#respond Mon, 02 May 2016 04:34:30 +0000 http://rekishidou.com/?p=3133 江戸時代始め、江戸幕府が行ったキリシタン弾圧によって多くの信者が処刑された場所。

歴史・概略

  • 京都鴨川の六条河原と呼ばれた付近は、古くより刑場として利用され多くの者たちの処刑が行われた場所である。
  • 江戸時代になるとキリシタンに対する締め付けが次第に厳しくなり、二代将軍徳川秀忠は獄中の信者たちを市中引き回しの上、六条河原まで運んで火あぶりで処刑した。
    これによって子供を含む52名もの信者が殉教した。
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慶長天主堂跡 https://rekishidou.com/keichotensyudo/ https://rekishidou.com/keichotensyudo/#respond Mon, 07 Oct 2019 01:25:01 +0000 http://rekishidou.com/?p=7149 江戸時代初期、京都にあったキリスト教の天主堂跡。

歴史・概略

  • キリスト教は、戦国時代末期に日本に伝来して以来、織田信長の庇護のもと、布教によって多くの信者を獲得した。信長の後に天下を受け継いだ豊臣秀吉もキリスト教に対して寛容で、各地に南蛮寺が建てられるなど勢力の拡大を続けた。しかし、他宗教との衝突などから天正15年(1587年)にバテレン追放令を出し、布教が禁じられた。
  • 転機は慶長5年(1600年)に起った「関ケ原の戦い」で、政権が豊臣氏から徳川家康へと移り、家康はキリスト教の布教を認め、慶長9年(1604年)にこの地にヤソ会の天主堂教会が建てられた。
  • しかしそれも長くは続かず、慶長17年(1612年)には再びキリスト教が禁じられ、天主堂は焼き払われた。
  • 江戸時代、この地は「だいうす」と呼ばれており、これはデウスがなまったものといわれている。
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