藤原兼家 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Wed, 31 May 2023 12:27:12 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 藤原兼家 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 宇治陵 https://rekishidou.com/ujiryo/ https://rekishidou.com/ujiryo/#respond Fri, 12 May 2023 05:11:59 +0000 https://rekishidou.com/?p=12218 京都府宇治市にある古墳群および平安時代の藤原氏一族の墳墓。そのひとつである1号墳で、宇治陵の総遥拝所ともなっている。

歴史・概略

  • 宇治陵(うじりょう・うじのみささぎ)は南北約1.8Km、東西約0.9Kmの範囲に広がる古墳・陵墓の総称。古墳時代の円墳や前方後円墳、平安時代藤原北家一族やそこから入内した女性、その皇子など300以上の陵墓が含まれる。
  • 明治10年(1877年)、宮内庁が17陵3墓を木幡陵に指定、現在は宇治陵となり37個所が宮内庁の管理下に置かれている。それぞれ1号墳から37号墳までの番号が付けられており、この1号墳は宇治陵の中央付近にあたる。
  • ただ陵墓の被葬者は特定されておらず、それぞれ誰が眠っているかは不明。被葬者とされている人物が宇治陵とはまったく別の場所に埋葬されている可能性すらある。いちおう32号墳が藤原道長、34号墳が藤原冬嗣、35号墳が藤原時平、36号墳が藤原基経であるといわれている。
  • 宮内庁の立て札には20名(17陵3墓)の名が記されている。
    (陵)宇多天皇女御中宮 温子
    (陵)醍醐天皇皇后 穏子
    (陵)村上天皇皇后 安子
    (陵)冷泉天皇女御贈皇太后 懐子
    (陵)冷泉天皇女御贈皇太后 超子
    (陵)円融天皇皇后 遵子
    (陵)円融天皇皇后 媓子
    (陵)円融天皇女御尊称皇太后 詮子
    (陵)一条天皇皇后 彰子
    (陵)三条天皇皇后 娍子
    (陵)三条天皇皇后 妍子
    (陵)後一条天皇皇后 威子
    (陵)後朱雀天皇即位前妃贈皇太后 嬉子
    (陵)後冷泉天皇皇后 寛子
    (陵)後冷泉天皇皇后 歓子
    (陵)後三条天皇即位前妃贈皇太后 茂子
    (陵)堀河天皇女御贈皇太后 苡子
    (墓)宇多天皇皇子 敦実親王
    (墓)冷泉天皇皇子 敦道親王
    (墓)後朱雀天皇女御准后 藤原生子
  • 宇治陵宮内庁立札

    宇治陵1号墳に掲げられている宮内庁の立札

  • 墳墓の西側入り口付近には藤原氏塋域と書かれた石碑が立てられている。塋域(えいいき)とは墓所のことであり、ここには藤原氏8名の名が刻まれている。
    閑院贈太政大臣 冬嗣
    昭宣公関白 基経
    本院贈太政大臣 時平
    法興院摂政 兼家
    南院関白 道隆
    法成寺関白 道長
    宇治関白 頼通
    後宇治関白 師實(師実)
  • 藤原氏塋域碑

    宇治陵1号墳前にある藤原氏塋域碑

見どころ・おすすめ

  • 藤原氏塋域碑の裏面に「伝寛弘2年造立浄妙寺堂桂礎石 木幡区供与石塔婆共」との記述があり、真相は不明だが寛弘2年(1005年)に道長によって建立された浄妙寺の礎石を利用したということらしい。
  • 周辺にはその浄妙寺跡のほか、1号から37号までの宇治陵がある。

]]>
https://rekishidou.com/ujiryo/feed/ 0
東三条殿跡 https://rekishidou.com/higashisanjodono/ https://rekishidou.com/higashisanjodono/#respond Fri, 20 May 2016 01:27:05 +0000 http://rekishidou.com/?p=1084 平安時代、政治権力の中枢に君臨し続けた藤原氏の邸宅跡、および御所跡。

歴史・概略

  • 東三条殿(ひがしさんじょうどの・とうさんじょうどの)は、平安時代初期から後期にかけて藤原摂関家当主や皇族の御所として使われた邸宅跡で、東三条院とも呼ばれる。
  • 平安時代初期、藤原氏として初めて摂政に就き、その後の藤原氏隆盛の基礎を作った藤原良房が、ここに屋敷を置いたことに始まったとされる。以降、忠平兼家など藤原摂関家に受け継がれた。天皇家に深く結びついていた藤原氏は、娘たちを天皇家に嫁がせ、兼家の娘・超子居貞親王(おきさだしんのう/後の三条天皇、同じく兼家の娘・詮子懐仁親王(やすひとしんのう/後の一条天皇をここで産んでいる。
    屋敷の名前から兼家東三条殿詮子東三条院と称された。
  • 平安時代末期には皇位継承を巡って、崇徳上皇後白河天皇との間で対立が激化するに至った。
    保元元年(1156年)、崇徳上皇側についていた藤原頼長の屋敷であった東三条殿に兵を集め、この計画を知った後白河天皇側の勢力によって接収された。このことによって一気に戦闘へと発展し保元の乱(ほうげんのらん)」が発生した。
    乱の後、屋敷は忠通のものとなり、一時期後白河天皇二条天皇の里内裏ともなっている。
  • 仁安元年(1166年)、火災により焼失。これ以後、再建されることはなかった。

見どころ・おすすめ

]]>
https://rekishidou.com/higashisanjodono/feed/ 0