大石内蔵助 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Sun, 19 Mar 2023 06:03:43 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 大石内蔵助 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 本所松坂町公園(吉良邸跡) https://rekishidou.com/kiratei/ https://rekishidou.com/kiratei/#respond Wed, 14 Feb 2018 02:46:25 +0000 http://rekishidou.com/?p=5539 東京都墨田区にあった吉良上野介の屋敷跡。

歴史・概略

  • 元禄15年12月14日(1703年1月30日)、赤穂四十七士討ち入りの際に吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしなか)の屋敷があった場所で、現在は小さな公園になっている。事件の発端となった江戸城での刃傷事件のときには別の屋敷に住んでいたが、討ち入りの1年ほど前に幕府の命によってこの場所に移り住んでいる。
  • 大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)はじめ赤穂浪士たちは、この討ち入りにより上野介の首を取ることに成功、見事に元主君の仇をとった。
    討ち入りの後、上野介の首を掲げ主君の内匠頭が眠る品川の泉岳寺まで歩き、江戸庶民から喝さい浴びたという。泉岳寺に到着した浪士たちは首を主君の墓に捧げて皆で手を合わせた。
  • 事件後、浪士たちは幕府に捕らえられ後に切腹、吉良屋敷は幕府によって没収された。
    その後、浪士たちは主君が眠る泉岳寺に埋葬されている。
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泉岳寺 https://rekishidou.com/sengakuji/ https://rekishidou.com/sengakuji/#respond Mon, 12 Feb 2018 02:20:30 +0000 http://rekishidou.com/?p=5537 東京都港区にある曹洞宗の寺院。

歴史・概略

  • 慶長17年(1612年)、徳川家康門庵宗関(もんなんそうかん・今川義元の孫とも)和尚を招いて外桜田の地に創建した。
  • 寛永18年(1641年)、「寛永の大火」により焼失。後に現在地である高輪に再建された。
  • 元禄14年(1701年)、江戸城松の大廊下において赤穂藩主・浅野長矩(内匠頭)が刃傷事件を起こし切腹。遺骸は浅野家家臣に引き取られ泉岳寺に葬られた。
  • 元禄15年12月14日(1703年1月30日)、内匠頭の刃傷事件以降、取り潰しとなった赤穂義士たちが吉良邸に討ち入り、主君の仇である吉良上野介を討ち取った。事件後、浪士たちは泉岳寺にやってきて内匠頭の墓前に首を供え焼香を行ったという。
  • 元禄16年(1703年)、事件直後に幕府に捕らえられ大名屋敷に預けられていた赤穂義士たちが切腹、主君と同じ泉岳寺に埋葬された。
    その後、事件は歌舞伎の演目となったり小説やドラマにされるなど、現代でもまったく人気が絶えることはない。
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備中松山城 https://rekishidou.com/matsuyamajo/ https://rekishidou.com/matsuyamajo/#respond Tue, 08 May 2018 02:33:55 +0000 http://rekishidou.com/?p=4931 岡山県高梁市にあった城。江戸時代の備中松山藩藩庁。
ほかに高梁城(たかはしじょう)とも呼ばれる。現存する12天守のうちのひとつで雲海に浮かぶ城として知られる。

歴史・概略

  • 仁治元年(1240年)、備中有漢郷の地頭・秋庭三郎重信が大松山に築城。
  • 元弘年間(1331年頃)、高橋宗康によって小松山に城を拡張。
  • 天正3年(1575年)、毛利氏織田氏の争いとなる中、毛利方小早川隆景の攻撃を受け落城。
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦い」の後、徳川幕府が城番を置く。
  • 元和3年(1617年)、池田長幸が入城。
  • 寛永19年(1642年)、水谷勝隆が入城。
  • 元禄6年(1693年)、水谷家が断絶し赤穂藩家老・大石内蔵助が城番となる。
  • 元禄8年(1695年)、安藤重博が入城。
  • 正徳元年(1711年)、石川総慶が入城。
  • 延享元年(1744年)、板倉勝澄が入城。以降明治に至るまで板倉氏が藩主となる。
  • 築城:仁治元年(1240年)
  • 廃城:明治7年(1874年)
  • 築城主:秋庭三郎重信
  • 構造:山城・連郭式
  • 主な城主:三村氏、水谷氏、板倉氏
  • 日本100名城
  • 現存天守
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赤穂城 https://rekishidou.com/akojo/ https://rekishidou.com/akojo/#respond Tue, 13 Feb 2018 01:50:56 +0000 http://rekishidou.com/?p=4906 兵庫県赤穂市にあった室町時代から江戸時代にかけての城。
江戸時代の赤穂藩(あこうはん)藩庁で加里屋城、大鷹城とも呼ばれる。

歴史・概略

  • 享徳年間(1452年~1455年)、播磨赤松氏の家臣であった岡豊前守光広が、加里屋城(かりやじょう)を築城したことに始まる。ただし、当時の加里屋城の正確な場所についてはいろいろな意見があり、こことはまったく別な場所の可能性もある。
  • 天正14年(1585年)、生駒親正(いこま・ちかまさ)が入封。
  • 天正15年(1586年)、生駒氏が讃岐へ転封となり宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)の所領となる。
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦い」により宇喜多氏が敗北し改易、後には池田長政池田輝政の弟)が入った。
  • 慶長5年(1600年)、長政が赤穂城の前身となる掻上城(かきあげじょう)を築城。
  • 正保2年(1645年)、池田輝興が不祥事で改易(正保赤穂事件)。備中松山藩の一時預かりとなった後浅野長直が入封。
  • 慶安元年(1648年)から寛文元年(1661年)浅野長直により現在見られる赤穂城を築城。このとき赤穂に招いた軍学者山鹿素行(やまが・そこう)などの助言も受けている。
  • 元禄14年(1701年)、播州赤穂藩3代藩主・浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながより)江戸城内にて吉良上野介(きら・こうずけのすけ)を切りつける刃傷事件を起こし切腹、浅野氏は改易となった。事件発生後、筆頭家老・大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)や家臣たちは赤穂城内で議論し城を明け渡したものの、後に仇であった吉良上野介を討ち取るに至った。
  • 元禄15年(1702年)、永井直敬が入封。
  • 宝永3年(1706年)、森長直が入封。以降明治に至るまで森氏が藩主を務める。
  • 築城:享徳年間(1452年~1455年)
  • 廃城:明治6年(1873年)
  • 築城主:岡豊前守光広
  • 構造:輪郭式・平城
  • 主な城主:池田氏・浅野氏・永井氏・森氏
  • 日本100名城
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