陽成天皇 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Fri, 05 May 2023 00:22:12 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 陽成天皇 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 二条院候補地(陽成院跡) https://rekishidou.com/yozein/ https://rekishidou.com/yozein/#respond Thu, 04 May 2023 10:27:30 +0000 https://rekishidou.com/?p=14344 平安時代の陽成上皇が御所とした邸宅跡。また、源氏物語の主人公である光源氏の邸宅のひとつである二条院の候補地ともなっている。

歴史・概略

  • 陽成天皇(ようぜいてんのう)は平安時代初期に在位した第57代天皇。暴君であったともいわれており、宮中での変死事件をきっかけに退位させられた。その結果、大叔父にあたる光孝天皇が即位し、皇統が移されることとなった。
    ただ、事件については謎が多く、実際は関係が悪かった藤原基経(ふじわら・もとつね/史上初の関白に就いたとされる実力者)によるでっち上げで、事件処理の正当性を保つために暴君としたとの見方もある。
  • 元慶8年(884年)、陽成天皇が譲位し、当地に遷って御所とした。屋敷は東西1町南北2町、案内板が立てられているのはちょうど真ん中あたりで、ここから北と南に1町の範囲に及ぶ。上皇崩御後は悪評を嫌ってか積極的に活用はされず、北側半分は宅地に、南側半分は荒れるに任された。
  • 源氏物語二条院は光源氏の主要な屋敷であり、母である桐壺更衣(きりつぼのこうい)の里内裏を光源氏が伝領し元服後に移り住んだ場所。
    陽成院の荒れるに任された南側の屋敷が二条院にあてられているが、説はほかにもあり確定はしていない。

見どころ・おすすめ

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陽成天皇 神楽岡東陵 https://rekishidou.com/yozeitennoryo/ https://rekishidou.com/yozeitennoryo/#respond Wed, 29 Jul 2020 00:08:17 +0000 https://rekishidou.com/?p=10284 平安時代初期に在位した陽成天皇の陵墓。

歴史・概略

  • 陽成天皇(ようぜいてんのう)。第57代天皇。貞明(さだあきら)
  • 在位:貞観18年(876年) ~ 元慶8年(884年)
  • 父:清和天皇 母:藤原高子(太政大臣・藤原長良の娘)
  • 御陵名:神楽岡東陵(かぐらがおかのひがしのみささぎ)
  • 墳形:八角丘
  • 染殿第(そめどのてい/摂政・太政大臣・藤原良房の屋敷)で誕生。
  • 父・清和天皇の譲位により9歳で即位、天皇が幼少であるため、伯父の藤原基経が摂政として政治を行った。
  • 清和天皇の崩御後、基経との関係が悪化、そんななか宮中で官人が殺害されるという事件が起こる。真相は定かでないがこの事件を機に基経に譲位を迫られ、皇統の違う光孝天皇に17歳で譲位した。
  • 冷然院(れいぜいいん)において崩御。宝算82。

見どころ・おすすめ

  • 後一條天皇陵が近くにあるので、まとめて回れる。
  • 金戒光明寺から近いので、そちらを回るついでに寄ったらいいかと。

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染殿井(京都御苑・藤原良房染殿第跡) https://rekishidou.com/somedonoi/ https://rekishidou.com/somedonoi/#respond Tue, 13 Aug 2019 01:02:41 +0000 http://rekishidou.com/?p=2842 平安時代前期の公卿・藤原良房の屋敷があった場所。

歴史・概略

  • 藤原良房(ふじわら・よしふさ)平安時代前期の公卿。文徳天皇(もんとくてんのう)の皇位継承に関わり、娘を入内させた。その後、間に生まれた幼い清和天皇(せいわてんのう)を皇位につけ、良房は外戚として権力を振るった。さらに貞観8年(866年)に起った「応天門の変」では、政敵の大伴氏を排除して藤原氏として初めて摂政に就くなど、後に続く藤原氏隆盛の基礎を築いた人物である。
    この場所には、良房の屋敷である染殿第(そめどのだい・そめどのてい)があったといわれる。
  • 染殿第は、良房の娘であり清和天皇の生母でもある藤原明子(ふじわら・めいし)の御所として使われ、清和天皇陽成天皇(ようぜいてんのう)に譲位した後の御所としている。
  • 染殿井は染殿第の中にあった井戸で、かつては京都三名水のひとつといわれていた。しかし、現在は枯れてしまい遺構となっている。
    左女牛井之跡

    京都三名水のひとつ左女牛井之跡(京都府京都市)

見どころ・おすすめ

  • かつて存在していた宮家や公家屋敷の多くは、一部を残してほとんどが撤去されており、今は一年中草花が楽しめる公園として整備されている。
  • 京都御苑内は平安時代から幕末に至る屋敷跡が点在し、いたるところに説明書きの駒札が立てられているので、それを巡るだけでもかなり楽しめる。

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冷然院跡 https://rekishidou.com/reizeiin/ https://rekishidou.com/reizeiin/#respond Tue, 15 Mar 2016 02:32:41 +0000 http://rekishidou.com/?p=1986 平安時代初期から中期にかけて、天皇の離宮や後院(ごいん)となった冷然院(冷泉院)の跡。

歴史・概略

  • 冷然院(れいぜいいん)の始まりは、平安時代初期嵯峨天皇が離宮として造営したこととされ、譲位後は後院とした。以後、天喜3年(1055年)に取り壊されるまで、歴代天皇の離宮や譲位後の後院として利用されている。
  • 場所は現在の二条城の北東部分にあたり、南北2町ずつの計4町、造りは寝殿造りであったといわれる。
  • 天安2年(858年)、文徳天皇崩御。
  • 天暦3年(949年)、陽成天皇崩御。
  • 天暦8年(954年)、冷泉院に改められる。それまで冷然院は火災による焼失と再建を繰り返しており、これは冷然院の然の字が燃に繋がるとの考えから名称が変更された。
  • 天喜3年(1055年)、焼失した一条院を再建するため、殿舎が移築された。

見どころ・おすすめ

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