山名宗全 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Sun, 19 Mar 2023 03:54:59 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 山名宗全 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 竹田城跡 https://rekishidou.com/takedajo/ https://rekishidou.com/takedajo/#respond Thu, 12 Apr 2018 01:12:12 +0000 http://rekishidou.com/?p=4899 兵庫県朝来市(あさごし)にある室町時代から安土桃山時代にかけての山城。
虎臥城、安井ノ城とも呼ばれる。雲海に浮かぶ城の姿は天空の城として人気を集めている。

歴史・概略

  • 築城:永享3年(1431年)?
  • 廃城:慶長5年(1600年)
  • 築城主:山名宗全?
  • 構造:山城・梯郭式
  • 主な城主:太田垣氏、羽柴秀長、桑山重晴、赤松広秀
  • 日本100名城
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山名宗全旧蹟 https://rekishidou.com/yamanakyuseki/ https://rekishidou.com/yamanakyuseki/#respond Thu, 10 Mar 2016 02:04:54 +0000 http://rekishidou.com/?p=2329 室町時代最大の戦乱のひとつ「応仁の乱」で、西軍の総大将となった山名宗全の邸宅があった場所。

歴史・概略

  • 乱のきっかけとなったのは室町幕府管領畠山氏の後継争いで、そこに山名宗全(やまな・そうぜん)の政権内の地位向上や、さらには足利将軍家の後継争いなども絡んで、後に「応仁の乱」と呼ばれる戦乱に拡大した。
  • 東軍の細川勝元は、細川邸と将軍の御所である「花の御所」を中心に陣を置き、西軍の山名宗全は山名邸に陣を置いた。東軍、西軍の呼び分け方はこのときの両軍の位置関係によるもの。
  • この周辺一帯が西陣と呼ばれる理由は、山名氏の邸宅を中心に西軍の陣地が置かれたためである。
  • 戦いは約10年間に渡って続き、西軍が陣を置いた山名邸や東軍が陣を置いた「花の御所」などは焼失、それ以外にも多くの建物が被害を受け、京都の街は荒廃していった。

見どころ・おすすめ

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山名宗全邸跡 https://rekishidou.com/yamanatei/ https://rekishidou.com/yamanatei/#respond Wed, 09 Mar 2016 02:10:17 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=321 京都の街を戦乱に巻き込んだ「応仁の乱」において、総大将として西軍を率いた山名宗全が構えていた邸宅跡。

歴史・概略

  • 山名宗全(やまな・そうぜん)は、近畿・中国地方に勢力を張った山名氏の頭領。名は持豊宗全は出家後の法名で、一般的にはこちらが使われる。
  • 室町時代中期、管領家畠山氏の後継争いに端を発して戦闘が発生した。政権内で勢力を拡大しようと山名宗全は中立の約束を破り畠山義就(はたけやま・よしひろ/よしなり)に協力、それに畠山政長を推す細川勝元が反発し戦局が拡大した。
    さらに、足利8代将軍足利義政の後継を弟の義視(よしみ)としていたところに義政の子・義尚(よしひさ)が生まれたこと、斯波氏の後継争いなどが複雑に絡み合い、後に「応仁の乱」と呼ばれる10年に及ぶ大乱へと発展した。
  • 勝元は将軍邸である花の御所(室町第)に陣を張り、宗全は自身の邸宅に陣を敷いて対立した。東軍西軍の呼び名はこのときの配置によるもので、宗全邸の周辺地域が西陣と呼ばれるのはその名残である。
    京都中心部を戦場としたこの長い戦乱によって京都の町は焦土と化し、室町幕府の権威は次第に衰退、戦国時代の幕開けとなった。

見どころ・おすすめ

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