浅野内匠頭 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Sat, 18 Mar 2023 12:44:47 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 浅野内匠頭 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 江戸城跡(皇居) https://rekishidou.com/edojo/ https://rekishidou.com/edojo/#respond Fri, 18 Mar 2016 01:02:16 +0000 http://rekishidou.com/?p=2600 東京都千代田区にある城。
徳川家康によって開かれた江戸幕府の拠点として知られる。

歴史・概略

  • 築城:長禄元年(1457年)
  • 廃城:
  • 築城主:太田道灌
  • 構造:輪郭式・平城
  • 主な城主: 太田氏・扇谷上杉氏・北条氏・徳川氏・皇室
  • 日本100名城
  • 長禄元年(1457年)、関東に勢力を張っていた扇谷上杉氏の家臣・太田道灌(おおた・どうかん)が平安時代よりこの地に勢力を張っていた江戸氏居館に江戸城を築城。
  • 大永4年(1524年)、北条氏の勢力拡大により北条氏の城となる。
  • 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の「小田原攻め(小田原征伐)」により北条氏は降伏、この時の戦功によって家康が北条氏の旧領に入り江戸城を本拠とする。
  • 秀吉の死後勃発した「関ケ原の戦い」に勝利し家康が幕府を開いた後もここを本拠とし、幕末まで続く。
  • 慶長8年(1603年)~万治3年(1660年)、天下普請による江戸城改修工事が続く。
  • 明暦3年(1657年)、明暦の大火により天守を含め建物の多くを焼失。
  • 安政2年(1855年)、安政大地震で建物や石垣などに被害。
  • 慶応4年(1868年)、徳川家が新政府軍に江戸城を明け渡す。
  • 明治2年(1869年)、明治天皇が「禁門の変」で荒廃していた京都より遷り皇居となる。

見どころ・おすすめ

  • 天守台-明暦の大火で焼失し再建された天守台。しかし後に天守は不要とされ天守は再建されなかった。
  • 桜田門・田安門・清水門-国の重要文化財。
  • 大番所・百人番所・同心番所-警護員の詰所。
  • 富士見多聞-江戸城で唯一現存している多門櫓。
  • 松の大廊下跡-浅野内匠頭(長矩)が吉良上野介(義央)に刃傷に及んだというあの廊下跡。
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泉岳寺 https://rekishidou.com/sengakuji/ https://rekishidou.com/sengakuji/#respond Mon, 12 Feb 2018 02:20:30 +0000 http://rekishidou.com/?p=5537 東京都港区にある曹洞宗の寺院。

歴史・概略

  • 慶長17年(1612年)、徳川家康門庵宗関(もんなんそうかん・今川義元の孫とも)和尚を招いて外桜田の地に創建した。
  • 寛永18年(1641年)、「寛永の大火」により焼失。後に現在地である高輪に再建された。
  • 元禄14年(1701年)、江戸城松の大廊下において赤穂藩主・浅野長矩(内匠頭)が刃傷事件を起こし切腹。遺骸は浅野家家臣に引き取られ泉岳寺に葬られた。
  • 元禄15年12月14日(1703年1月30日)、内匠頭の刃傷事件以降、取り潰しとなった赤穂義士たちが吉良邸に討ち入り、主君の仇である吉良上野介を討ち取った。事件後、浪士たちは泉岳寺にやってきて内匠頭の墓前に首を供え焼香を行ったという。
  • 元禄16年(1703年)、事件直後に幕府に捕らえられ大名屋敷に預けられていた赤穂義士たちが切腹、主君と同じ泉岳寺に埋葬された。
    その後、事件は歌舞伎の演目となったり小説やドラマにされるなど、現代でもまったく人気が絶えることはない。
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赤穂城 https://rekishidou.com/akojo/ https://rekishidou.com/akojo/#respond Tue, 13 Feb 2018 01:50:56 +0000 http://rekishidou.com/?p=4906 兵庫県赤穂市にあった室町時代から江戸時代にかけての城。
江戸時代の赤穂藩(あこうはん)藩庁で加里屋城、大鷹城とも呼ばれる。

歴史・概略

  • 享徳年間(1452年~1455年)、播磨赤松氏の家臣であった岡豊前守光広が、加里屋城(かりやじょう)を築城したことに始まる。ただし、当時の加里屋城の正確な場所についてはいろいろな意見があり、こことはまったく別な場所の可能性もある。
  • 天正14年(1585年)、生駒親正(いこま・ちかまさ)が入封。
  • 天正15年(1586年)、生駒氏が讃岐へ転封となり宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)の所領となる。
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦い」により宇喜多氏が敗北し改易、後には池田長政池田輝政の弟)が入った。
  • 慶長5年(1600年)、長政が赤穂城の前身となる掻上城(かきあげじょう)を築城。
  • 正保2年(1645年)、池田輝興が不祥事で改易(正保赤穂事件)。備中松山藩の一時預かりとなった後浅野長直が入封。
  • 慶安元年(1648年)から寛文元年(1661年)浅野長直により現在見られる赤穂城を築城。このとき赤穂に招いた軍学者山鹿素行(やまが・そこう)などの助言も受けている。
  • 元禄14年(1701年)、播州赤穂藩3代藩主・浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながより)江戸城内にて吉良上野介(きら・こうずけのすけ)を切りつける刃傷事件を起こし切腹、浅野氏は改易となった。事件発生後、筆頭家老・大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)や家臣たちは赤穂城内で議論し城を明け渡したものの、後に仇であった吉良上野介を討ち取るに至った。
  • 元禄15年(1702年)、永井直敬が入封。
  • 宝永3年(1706年)、森長直が入封。以降明治に至るまで森氏が藩主を務める。
  • 築城:享徳年間(1452年~1455年)
  • 廃城:明治6年(1873年)
  • 築城主:岡豊前守光広
  • 構造:輪郭式・平城
  • 主な城主:池田氏・浅野氏・永井氏・森氏
  • 日本100名城
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