藤原良房 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Fri, 05 May 2023 00:17:51 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 藤原良房 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 東三条殿跡 https://rekishidou.com/higashisanjodono/ https://rekishidou.com/higashisanjodono/#respond Fri, 20 May 2016 01:27:05 +0000 http://rekishidou.com/?p=1084 平安時代、政治権力の中枢に君臨し続けた藤原氏の邸宅跡、および御所跡。

歴史・概略

  • 東三条殿(ひがしさんじょうどの・とうさんじょうどの)は、平安時代初期から後期にかけて藤原摂関家当主や皇族の御所として使われた邸宅跡で、東三条院とも呼ばれる。
  • 平安時代初期、藤原氏として初めて摂政に就き、その後の藤原氏隆盛の基礎を作った藤原良房が、ここに屋敷を置いたことに始まったとされる。以降、忠平兼家など藤原摂関家に受け継がれた。天皇家に深く結びついていた藤原氏は、娘たちを天皇家に嫁がせ、兼家の娘・超子居貞親王(おきさだしんのう/後の三条天皇、同じく兼家の娘・詮子懐仁親王(やすひとしんのう/後の一条天皇をここで産んでいる。
    屋敷の名前から兼家東三条殿詮子東三条院と称された。
  • 平安時代末期には皇位継承を巡って、崇徳上皇後白河天皇との間で対立が激化するに至った。
    保元元年(1156年)、崇徳上皇側についていた藤原頼長の屋敷であった東三条殿に兵を集め、この計画を知った後白河天皇側の勢力によって接収された。このことによって一気に戦闘へと発展し保元の乱(ほうげんのらん)」が発生した。
    乱の後、屋敷は忠通のものとなり、一時期後白河天皇二条天皇の里内裏ともなっている。
  • 仁安元年(1166年)、火災により焼失。これ以後、再建されることはなかった。

見どころ・おすすめ

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染殿井(京都御苑・藤原良房染殿第跡) https://rekishidou.com/somedonoi/ https://rekishidou.com/somedonoi/#respond Tue, 13 Aug 2019 01:02:41 +0000 http://rekishidou.com/?p=2842 平安時代前期の公卿・藤原良房の屋敷があった場所。

歴史・概略

  • 藤原良房(ふじわら・よしふさ)平安時代前期の公卿。文徳天皇(もんとくてんのう)の皇位継承に関わり、娘を入内させた。その後、間に生まれた幼い清和天皇(せいわてんのう)を皇位につけ、良房は外戚として権力を振るった。さらに貞観8年(866年)に起った「応天門の変」では、政敵の大伴氏を排除して藤原氏として初めて摂政に就くなど、後に続く藤原氏隆盛の基礎を築いた人物である。
    この場所には、良房の屋敷である染殿第(そめどのだい・そめどのてい)があったといわれる。
  • 染殿第は、良房の娘であり清和天皇の生母でもある藤原明子(ふじわら・めいし)の御所として使われ、清和天皇陽成天皇(ようぜいてんのう)に譲位した後の御所としている。
  • 染殿井は染殿第の中にあった井戸で、かつては京都三名水のひとつといわれていた。しかし、現在は枯れてしまい遺構となっている。
    左女牛井之跡

    京都三名水のひとつ左女牛井之跡(京都府京都市)

見どころ・おすすめ

  • かつて存在していた宮家や公家屋敷の多くは、一部を残してほとんどが撤去されており、今は一年中草花が楽しめる公園として整備されている。
  • 京都御苑内は平安時代から幕末に至る屋敷跡が点在し、いたるところに説明書きの駒札が立てられているので、それを巡るだけでもかなり楽しめる。

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白河院跡(法勝寺跡) https://rekishidou.com/shirakawain/ https://rekishidou.com/shirakawain/#respond Thu, 08 Aug 2019 00:59:14 +0000 http://rekishidou.com/?p=1082 藤原氏の別荘、および白河上皇が建立した法勝寺(ほっしょうじ)の跡。

歴史・概略

  • 白河院は、平安時代初期の公家で藤原氏全盛の礎となった藤原良房が、この場所に別業(別荘)を営んだことに始まり、白河殿や白河第などと呼ばれた。その後は摂関家嫡流に受け継がれ、師実の代になって時の天皇・白河天皇に献上された。
  • 承保2年(1075年)、白河天皇により法勝寺を造営。
  • 承暦元年(1077年)、金堂の落慶供養が執り行われる。
  • 永保3年(1083年)、八角九重塔と愛染堂が完成。八角九重塔跡地の京都市動物園内には、九重塔跡碑が立っている。
  • 法勝寺復元模型

    法勝寺復元模型(平安京創生館・京都府京都市)

  • その後、法勝寺は天皇家から厚い保護を受け、以降もこの周辺には尊勝寺最勝寺・円勝寺・成勝寺延勝寺など、天皇家ゆかりの寺が次々と建てられていった。
    すべてに勝の字が含まれているこれらの寺を総称して六勝寺と呼ぶ。
  • 平安京白河付近の復元模型

    平安京白河付近の復元模型(平安京創生館・京都府京都市)

  • しかし、その後の度重なる火災や戦乱などにより、室町時代後期には廃絶した。

見どころ・おすすめ

  • 岡崎周辺には六勝寺や御所跡など、院政期の跡地が点在しているのでまとめて回ればよいかと。

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