宇治陵 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Wed, 18 Oct 2023 02:26:43 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 宇治陵 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 宇治陵32号墳(藤原道長の墓) https://rekishidou.com/ujiryo-32/ Sat, 13 May 2023 09:10:59 +0000 https://rekishidou.com/?p=15311 京都府宇治市にある平安時代に造られた墳墓のひとつ。平安時代中期の公卿・藤原道長の墓とする説がある。

歴史・概略

  • 【藤原道長】ふじわら・みちなが(別名:御堂関白)
  • 【生没年】康保3年(966年)- 万寿4年(1028年)
  • 【官位】従一位・太政大臣・摂政(後一条天皇)
  • 【素性】藤原北家 藤原兼家(摂政・関白・太政大臣)の五男。兄たちが相次いで亡くなり政権を掌握、娘たちを入内させ後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇の外祖父となった。
  • 【人物】剛腕政治家である一方、歌の会を催したり多くの歌を残す。さらに源氏物語の作者紫式部を見出すなど文化面でも才能を発揮、作中の光源氏のモデルであるともいわれている。20年以上に渡って書き綴った日記『御堂関白記』は国宝に指定されている。道長をあらわすものとして『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば』の句はあまりにも有名。
    最後は自邸の隣に建立した法成寺阿弥陀堂内で儀式をしながら逝ったという。この法成寺は京極御堂とも呼ばれ、道長が御堂関白と呼ばれる由来となっている。


法成寺跡

道長が最後を迎えた法成寺跡(京都府京都市)

  • 宇治陵(うじりょう・うじのみささぎ)は宇治市木幡(うじしこはた)付近に古墳時代以降造られた300以上点在している古墳・陵墓の総称。平安時代には藤原北家一族の埋葬地となっていたことから、当主だけでなく一族から入内した天皇の妃などが眠っている。ただ藤原氏の衰えとともに墓は放置され荒廃していった結果、陵墓それぞれの被葬者が不明となり現在に至っている。
  • 32号墳の被葬者を道長であるとするのはあくまで説のひとつであり、確定はしていない。道長の子・藤原頼通が浄妙寺の南大門から道長の墓に参ったとの記述が残されており、その後発見された浄妙寺跡の位置関係からそのように推定されている。

見どころ・おすすめ

  • この周辺に宇治陵1号墳から37号墳まで点在している。また、道長が藤原氏の菩提を弔うため創建した浄妙寺跡もすぐ近く。

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宇治陵 https://rekishidou.com/ujiryo/ https://rekishidou.com/ujiryo/#respond Fri, 12 May 2023 05:11:59 +0000 https://rekishidou.com/?p=12218 京都府宇治市にある古墳群および平安時代の藤原氏一族の墳墓。そのひとつである1号墳で、宇治陵の総遥拝所ともなっている。

歴史・概略

  • 宇治陵(うじりょう・うじのみささぎ)は南北約1.8Km、東西約0.9Kmの範囲に広がる古墳・陵墓の総称。古墳時代の円墳や前方後円墳、平安時代藤原北家一族やそこから入内した女性、その皇子など300以上の陵墓が含まれる。
  • 明治10年(1877年)、宮内庁が17陵3墓を木幡陵に指定、現在は宇治陵となり37個所が宮内庁の管理下に置かれている。それぞれ1号墳から37号墳までの番号が付けられており、この1号墳は宇治陵の中央付近にあたる。
  • ただ陵墓の被葬者は特定されておらず、それぞれ誰が眠っているかは不明。被葬者とされている人物が宇治陵とはまったく別の場所に埋葬されている可能性すらある。いちおう32号墳が藤原道長、34号墳が藤原冬嗣、35号墳が藤原時平、36号墳が藤原基経であるといわれている。
  • 宮内庁の立て札には20名(17陵3墓)の名が記されている。
    (陵)宇多天皇女御中宮 温子
    (陵)醍醐天皇皇后 穏子
    (陵)村上天皇皇后 安子
    (陵)冷泉天皇女御贈皇太后 懐子
    (陵)冷泉天皇女御贈皇太后 超子
    (陵)円融天皇皇后 遵子
    (陵)円融天皇皇后 媓子
    (陵)円融天皇女御尊称皇太后 詮子
    (陵)一条天皇皇后 彰子
    (陵)三条天皇皇后 娍子
    (陵)三条天皇皇后 妍子
    (陵)後一条天皇皇后 威子
    (陵)後朱雀天皇即位前妃贈皇太后 嬉子
    (陵)後冷泉天皇皇后 寛子
    (陵)後冷泉天皇皇后 歓子
    (陵)後三条天皇即位前妃贈皇太后 茂子
    (陵)堀河天皇女御贈皇太后 苡子
    (墓)宇多天皇皇子 敦実親王
    (墓)冷泉天皇皇子 敦道親王
    (墓)後朱雀天皇女御准后 藤原生子
  • 宇治陵宮内庁立札

    宇治陵1号墳に掲げられている宮内庁の立札

  • 墳墓の西側入り口付近には藤原氏塋域と書かれた石碑が立てられている。塋域(えいいき)とは墓所のことであり、ここには藤原氏8名の名が刻まれている。
    閑院贈太政大臣 冬嗣
    昭宣公関白 基経
    本院贈太政大臣 時平
    法興院摂政 兼家
    南院関白 道隆
    法成寺関白 道長
    宇治関白 頼通
    後宇治関白 師實(師実)
  • 藤原氏塋域碑

    宇治陵1号墳前にある藤原氏塋域碑

見どころ・おすすめ

  • 藤原氏塋域碑の裏面に「伝寛弘2年造立浄妙寺堂桂礎石 木幡区供与石塔婆共」との記述があり、真相は不明だが寛弘2年(1005年)に道長によって建立された浄妙寺の礎石を利用したということらしい。
  • 周辺にはその浄妙寺跡のほか、1号から37号までの宇治陵がある。

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宇治陵35号墳(藤原時平の墓) https://rekishidou.com/ujiryo-35/ Wed, 17 May 2023 02:14:40 +0000 https://rekishidou.com/?p=15320 京都府宇治市にある平安時代の墳墓。平安時代前期に権力を握った藤原時平の墓とされる。

歴史・概略

  • 宇治陵(うじりょう・うんじのみささぎ)とはひとつの墳墓のことではなく、宇治市木幡(うじしこはた)に点在している300余りの墳墓をまとめて指すものである。
  • 平安時代には藤原氏の埋葬地となったため、平安時代初期から後期にかけて当主だけでなく一族から入内した天皇の妃などが葬られた。ただ平安時代の終わりには埋葬地として使われなくなった上、権力の衰えによって陵墓は荒廃。そして長い年月が経過したことで、いまはどこにだれが眠っているのか分からなくなった。ただ不明ながらもこれらの陵墓は天皇家に繋がるものとして、現在は37個所が指定され宮内庁の管理下に置かれている。
  • 藤原時平(ふじわらときひら)平安時代前期の公卿。藤原北家貞観13年-延喜9年(871年-909年)藤原基経の長男として権力を引き継ぎ、摂政・関白・太政大臣に就任。
    なかでも菅原道真を追い落とした人物として知られ、若くして亡くなった後は道真の祟りとして恐れられた。そして天神信仰が深まるにつれて大悪人として描かれるようになっていったのだとか。
  • 35号墳は時平塚と呼ばれ、藤原時平の墓とされている。被葬者不明の宇治陵の中にあって唯一人名と思しき名称がつけられている陵墓である。

見どころ・おすすめ

  • 陵墓の入口は東側にある。住宅街の中なので気をつけていないと見落とすと思う。
  • 周辺は宇治陵が点在しており、藤原道長が藤原氏の菩提を弔うため建立したという浄妙寺跡碑も近い。

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宇治陵34号墳(赤塚・伝 藤原冬嗣夫妻墓所) https://rekishidou.com/ujiryo-34/ Tue, 16 May 2023 04:53:06 +0000 https://rekishidou.com/?p=15317 京都府宇治市にある平安時代の墳墓。平安時代初期の権力者であった藤原冬嗣の墓と伝わる。

歴史・概略

  • 宇治陵(うじりょう・うじのみささぎ)とは、宇治市木幡(うじしこはた)一帯に点在している古墳時代平安時代など様々な時代を含む300基以上の古墳・陵墓の総称。平安時代の始め藤原基経が一族の埋葬場所としてより、藤原北家の当主やそこから入内した天皇の妃などが平安時代の終わり頃にかけて葬られた。
    それ以降は時代とともに風化し、だれがどこに葬られたかも分からなくなり今に至っている。ただそうした陵墓については天皇家に繋がるものとして、宮内庁によって37個所が指定され管理下に置かれている。
  • 藤原冬嗣(ふじわらふゆつぐ)平安時代初期の公卿(左大臣)。藤原北家宝亀6年-天長3年(775年-826年)。その後長らく続いてゆく藤原北家一族隆盛の礎となった人物。
  • 赤塚とも呼ばれる34号墳が冬嗣の墓と伝えられているが確かなことは不明。またこの時代では異例ではあるが、夫人の藤原美都子も同じ場所に葬られたとされている。

見どころ・おすすめ

  • 周辺には宇治陵が1号から37号まで点在しており、道長が建立したという浄妙寺跡もあるので回ってみるとよいかと。

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宇治陵36号墳(藤原基経の墓) https://rekishidou.com/ujiryo-36/ Mon, 15 May 2023 05:02:13 +0000 https://rekishidou.com/?p=15308 京都府宇治市にある平安時代の墳墓。平安時代の権力者であった藤原基経の墓ともいわれている。

歴史・概略

  • 宇治陵(うじりょう・うじのみささぎ)とは、宇治市木幡(こはた)一帯に点在する300余りの墳墓の総称。平安時代初期には藤原基経がこの付近一帯を藤原北家一族の埋葬地としたため、平安時代後期に至るまで当主や一族から入内した天皇の妃などが葬られた。その後は藤原氏の衰退とともに墓所が荒廃し、それぞれの被葬者が不明のまま今に至っている。
  • 宮内庁は天皇の妃や藤原氏の当主などの陵墓であるとして、そのうちの37個所を指定し管理下に置いている。
  • 藤原基経(ふじわらもとつね)平安時代初期の公卿。藤原長良の三男であったが、叔父で男子のなかった権力者・藤原良房の養子となり、良房が亡くなったのち政治基盤を受け継いだ。その後摂政や史上初の関白に就任(異論もある)するなど藤原政権を確立した人物のひとり。
  • 許波多神社(こはたじんじゃ)境内西側の一角、狐塚と呼ばれる5m四方ほどの柵に囲まれた小さな墳墓(宇治陵36号墳)が基経の墓とされている。藤原道長藤原氏の菩提を弔うため浄妙寺を建立した際、深草から改葬されたと伝わっているが定かではない。

見どころ・おすすめ

  • この付近一帯には宇治陵が点在しているので回ってみるのがよいかと。

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藤原道長建立浄妙寺跡 https://rekishidou.com/jomyoji-2/ https://rekishidou.com/jomyoji-2/#respond Sun, 14 May 2023 03:02:59 +0000 https://rekishidou.com/?p=12220 京都府宇治市に平安時代から室町時代にかけてあった寺院跡。平安時代の権力者であった藤原道長ゆかりの寺。

歴史・概略

  • 平安時代初期から後期にかけてこのあたりは藤原北家一族の埋葬地とされており、現在でも付近一帯には墳墓が点在してる。若き藤原道長がこの地を訪れたとき、あまりの荒廃ぶりに嘆き寺の建立を決意したといわれている。
  • 寛弘2年(1005年)、木幡(こはた)の地に道長が法華三昧堂(ほっけさんまいどう)を建立、園城寺(おんじょうじ)の勧修(かんしゅう)を招いて浄妙寺を開山した。地名から木幡寺とも呼ばれ、寛弘4年(1007年)に完成した。
  • 浄妙寺は三昧堂のほか祠堂、鐘楼、客殿、僧房、多宝塔などの伽藍を備えた本格的寺院で、藤原氏の菩提寺となった。ただその後の藤原氏の衰退もあり、詳細は不明であるが中世の戦火で廃絶したとみられている。
  • 木幡小学校の建設に伴い調査が実施され、いくつかの痕跡を発見。これは三昧堂跡とみられ現在は校庭の下に埋め戻されている。

見どころ・おすすめ

  • 痕跡についてはまったく見ることができない。小学校前に浄妙寺跡碑が立つのみである。
  • 周辺には藤原氏ゆかりの宇治陵が点在しており、すぐ南側には道長の墓とみられている32号墳がある。

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