後冷泉天皇 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Fri, 05 May 2023 00:22:12 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 後冷泉天皇 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 土御門第跡(京都御苑・藤原道長邸) https://rekishidou.com/tsuchimikadodai/ https://rekishidou.com/tsuchimikadodai/#respond Sun, 27 Mar 2016 10:16:04 +0000 http://rekishidou.com/?p=2808 平安時代の中期、権力の座に上り詰め栄華を極めた藤原道長の邸宅跡。

歴史・概略

  • 藤原道長(ふじわら・みちなが)は、平安時代中期の摂政(後一条天皇)・太政大臣。摂政・藤原兼家の五男であり、摂政・関白は兄たちが継承していったため、本来ならば権力の座につく立場にはなかった。しかし、その兄たちが相次いで亡くなったことにより権力争いが勃発、道長はこの争いを制して藤原氏の長者となった。
  • 土御門第(つちみかどだい・つちみかどてい)はもともと宇多天皇を祖とする源雅信の屋敷で、後に雅信の娘・倫子道長が結婚、雅信が亡くなったあと屋敷を継承したとみられる。
  • 土御門第の名は土御門大路に面していたことに由来し、この道が大内裏の上東門から伸びる道であったことから上東門殿とも呼ばれた。道長の娘・藤原彰子(ふじわら・しょうし)が後に上東門院と呼ばれたのもこの屋敷に起因している。
  • 道長は娘の彰子一条天皇の中宮とし、後の後一条天皇後朱雀天皇をこの邸内で出産している。また後朱雀天皇東宮妃となった道長の娘・嬉子も、後の後冷泉天皇をここで産んでいる。
  • さらに道長の晩年には、邸の東側に鴨川にかけて広大な規模を持つ法成寺(ほうじょうじ)を建立するなどし、藤原氏としての最盛期を過ごした。建物は火災によって焼失、再建を度々繰り返したが、やがて時代とともに藤原氏の権力も陰りを見せ、土御門第も法成寺も次第に廃れていった。

見どころ・おすすめ

  • かつて存在していた宮家や公家屋敷の多くは、一部を残してほとんどが撤去されており、今は一年中草花が楽しめる公園として整備されている。
  • 京都御苑内は平安時代から幕末に至る屋敷跡が点在し、いたるところに説明書きの駒札が立てられているので、それを巡るだけでもかなり楽しめる。
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高陽院邸跡 https://rekishidou.com/kayanointei-2/ https://rekishidou.com/kayanointei-2/#respond Mon, 31 Oct 2022 11:48:53 +0000 https://rekishidou.com/?p=10521 平安時代から鎌倉時代にかけての藤原氏の邸宅跡、および里内裏跡。

歴史・概略

  • 高陽院(かやのいん)平安時代中期の関白・藤原頼通(ふじわら・よりみち/道長の長男)がおもな拠点とした屋敷である。ほかに「賀陽院」とも表記される。
  • 平安時代初期、この付近には桓武天皇の皇子・賀陽親王(かやしんのう)の邸宅があった。その後幾人かの所有者を経た後、この地を気に入った頼通保安元年(1021年)に寝殿造りの屋敷を造営した。敷地は2町四方(約250m四方)にも及ぶ広大なものであった。
    発掘調査では約140メートルという巨大な池の跡も発見されており、屋敷の豪華絢爛さが裏付けられている。
  • 頼道の引退後は里内裏となり、後冷泉天皇以後5代に渡って御所として使われた。
  • 鎌倉時代初期、後鳥羽上皇が譲位した後の院御所とした。
  • 貞応2年(1223年)、放火により焼失。この焼失を最後に再建されることはなかった。

見どころ・おすすめ

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高陽院邸跡 https://rekishidou.com/kayanointei/ https://rekishidou.com/kayanointei/#respond Thu, 16 Apr 2020 02:15:32 +0000 https://rekishidou.com/?p=10517 平安時代から鎌倉時代にかけての藤原氏の邸宅、および御所跡。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

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冷然院跡 https://rekishidou.com/reizeiin/ https://rekishidou.com/reizeiin/#respond Tue, 15 Mar 2016 02:32:41 +0000 http://rekishidou.com/?p=1986 平安時代初期から中期にかけて、天皇の離宮や後院(ごいん)となった冷然院(冷泉院)の跡。

歴史・概略

  • 冷然院(れいぜいいん)の始まりは、平安時代初期嵯峨天皇が離宮として造営したこととされ、譲位後は後院とした。以後、天喜3年(1055年)に取り壊されるまで、歴代天皇の離宮や譲位後の後院として利用されている。
  • 場所は現在の二条城の北東部分にあたり、南北2町ずつの計4町、造りは寝殿造りであったといわれる。
  • 天安2年(858年)、文徳天皇崩御。
  • 天暦3年(949年)、陽成天皇崩御。
  • 天暦8年(954年)、冷泉院に改められる。それまで冷然院は火災による焼失と再建を繰り返しており、これは冷然院の然の字が燃に繋がるとの考えから名称が変更された。
  • 天喜3年(1055年)、焼失した一条院を再建するため、殿舎が移築された。

見どころ・おすすめ

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