松平広忠 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Thu, 12 Oct 2023 00:50:03 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 松平広忠 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 岡崎城(岡崎公園) https://rekishidou.com/okazakijo/ https://rekishidou.com/okazakijo/#respond Sun, 27 Dec 2015 09:28:46 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=474 愛知県岡崎市にあった城。江戸時代の岡崎藩藩庁。
徳川家康が生まれたことで知られ、公園内には「産湯の井戸」や「えな(胞衣)塚」など家康ゆかりのものが残っている。

歴史・概略

室町時代中期、三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼(つぎより)とその子頼嗣(よりつぐ)によって、北方の守りとして龍頭山に築城したことが始まり。

その後、家康の祖父松平清康が岡崎城に入ったが、家臣の謀反によって殺害された。さらには父松平広忠も謀反によって命を落とすなどし、今川氏の城代が置かれた。しかし、家康19歳のとき、桶狭間の戦い今川義元が討ち取られたことを契機に今川家より独立を果たした。

家康が江戸に幕府を開いた後は、譜代大名が城主を務めた。岡崎藩の石高は5万石程度とさほど多くはないものの、家康公が誕生した城として神聖視され、大名たちは岡崎城主になることを誇りにしたという。

  • 築城:享徳元年(1452年)
  • 廃城:明治6年(1873年)
  • 築城主:西郷稠頼・頼嗣
  • 構造:梯郭式・平山城
  • 主な城主: 西郷氏・松平氏・田中氏・本多氏・水野氏
  • 日本100名城
  • 享徳元年(1452年)、西郷氏により築城
  • 享禄4年(1531年)、松平家が城主となる
  • 天文11年(1542年)、徳川家康が岡崎城に生まれる
  • 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦い
  • 元亀元年(1570年)、家康浜松城へ居城を移す/家康の長男・松平信康が城主となる
  • 天正7年(1579年)、信康が二俣城で切腹
  • 天正7年(1579年)、石川数正が城代となる
  • 天正13年(1585年)、数正が出奔
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦い
  • 元和3年(1617年)、天守が完成
  • 明治6年(1873年)、廃城

見どころ・おすすめ

  • 天守閣-岡崎城の歴史を伝える展示館。展望室からは岡崎市を一望。
  • 家康館-家康誕生から天下人になるまでを伝える展示館。
  • 徳川家康公像-家康の像。
  • しかみ像-家康が三方ヶ原敗戦時に描かせたと言われる肖像画の像。
  • 本多平八郎忠勝公像-徳川四天王のひとり本多忠勝の像。
  • 東照公産湯の井戸-家康誕生時に産湯に使われたと伝わる井戸。
  • 東照公えな塚-家康のへその緒を埋めたと伝わる塚。
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蟹江城址 https://rekishidou.com/kaniejo/ https://rekishidou.com/kaniejo/#respond Thu, 08 Mar 2018 02:28:17 +0000 http://rekishidou.com/?p=5411 愛知県海部郡蟹江町にあった室町時代の城。
小牧・長久手の戦い」において羽柴秀吉軍と徳川家康織田信雄軍の戦いが行われた地として知られる。

歴史・概略

  • 弘治元年(1555年)、当時織田方であった蟹江城を今川方の松平広忠が攻略。このとき活躍した武将は後に蟹江七本槍(大久保忠世大久保忠佐・ほか5人)と呼ばれた。
  • 永禄10年(1567年)、滝川一益により再構築。
  • 天正11年(1583年)、「賤ヶ岳の戦い」で滝川一益柴田勝家に味方し秀吉に敗北、蟹江城は織田信雄(おだ・のぶかつ)家臣の佐久間信栄(さくま・のぶひで)に与えられた。
  • 天正12年(1584年)、「小牧・長久手の戦い」において秀吉方の滝川一益が蟹江城を攻略。
  • 天正12年(1584年)、徳川家康・織田信雄連合軍が蟹江城を攻撃し落城。
  • 天正13年末(1586年初)、天正地震により壊滅。
  • 築城:永享年間(1429年~1440年)
  • 廃城:天正13年末(1586年初)
  • 築城主:北条時任か
  • 構造:平城
  • 主な城主:滝川一益佐久間信栄

見どころ・おすすめ

  • 住宅街の真ん中に蟹江城址の石碑が立てられているのみで、城跡を思わせるものは何もない。
  • ただ、石碑の少し西側には本丸にあった井戸とされる井戸跡がある。
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小豆坂古戦場 https://rekishidou.com/azukizakakosenjo/ https://rekishidou.com/azukizakakosenjo/#respond Fri, 19 Jan 2018 01:03:15 +0000 http://rekishidou.com/?p=4858 尾張の織田氏と三河の松平氏・今川氏連合軍の間で起こった「小豆坂の戦い」が行われた地。
また、三河一向一揆の際にも戦場となった。

歴史・概略

  • 「小豆坂の戦い(あずきざかのたたかい)」は、戦国時代末期に三河支配を巡って尾張の織田家と駿河・遠江の今川家との間で行われた戦闘。
    三河を統一した松平清康(徳川家康の祖父)の死によって、松平氏は力を弱めた。この三河に対し、隣国である尾張の織田信秀織田信長の父)と、駿河の今川義元が進出、岡崎城近くの小豆坂において衝突した。
  • 戦いは天文11年(1542年)天文17年(1548年)の二度行われ、信秀の跡を継いだ織田信長永禄3年(1560年)に桶狭間で今川義元を討ち取って松平元康(後の徳川家康)が独立するまで、三河の地は今川氏の勢力下となった。
    ただ、この戦いについては資料がほとんどなく不明な点も多い。戦いも二度ではなく一度のみであったとする説もある。
  • 永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)にかけて三河一向一揆が勃発。桶狭間の戦い後の家康独立から間もない不安定な時期であり、家臣団の中にも一揆勢に身を投じるものも多かったため、家康はかなり窮地に追い込まれた。この「三河一向一揆」と「三方ヶ原の戦い」「神君伊賀越え」を合わせて徳川家康の三大危機と呼ばれる。
    石碑のある小豆坂・馬頭原(ばとうがはら)一帯で一揆勢と家康軍が衝突、一揆勢が家康軍に挟み撃ちにされ撤退した。家康がこの戦いに勝利したことで家康有利で講和が進み、一揆は終息に向かうこととなった。
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