山城長岡藩 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Mon, 20 Mar 2023 05:35:00 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 山城長岡藩 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 勝龍寺城跡 https://rekishidou.com/syouryujijo/ https://rekishidou.com/syouryujijo/#respond Sat, 19 Dec 2015 12:10:16 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=66 京都府長岡京市にあった城。小竜寺城とも呼ばれる。
戦国時代には細川氏の城となり、明智光秀の娘たま(後のガラシャ夫人)が輿入れし、暮らした城として知られる。

歴史・概略

  • 読み:しょうりゅうじじょう
  • 築城:延元4年/暦応2年(1339年)
  • 廃城:慶安2年(1649年)
  • 築城主:細川頼春か
  • 構造:平城・梯郭式
  • 主な城主:岩成友通細川藤孝など

見どころ・おすすめ

  • 資料室では細川氏や「山崎の合戦」に関わる展示がされている。
  • 「山崎の合戦」に敗れた明智光秀が坂本城を目指して抜け出したという北門が残っており、当時の石垣が見られる。
  • 天守があったと考えられる西側の土塁からは天王山を望むことができる。
  • 山崎から長岡京にかけて周辺には「山崎の合戦」に関連する史跡が点在しているので、同時に回るのがおすすめ。1日で全部を回り切るのは結構大変かもしれないが、合戦のスケール感が掴める。
  • 天王山中腹の旗立松からは合戦場所周辺を俯瞰して見ることができる。
  • 少し北側に土塁と空堀跡があるので、勝龍寺城をひとしきり回ったら寄ってみるといい。
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勝龍寺城土塁 空堀跡 https://rekishidou.com/syouryujijo-3/ https://rekishidou.com/syouryujijo-3/#respond Wed, 02 Dec 2020 03:03:11 +0000 https://rekishidou.com/?p=9324 勝龍寺城は室町時代から江戸時代初期にかけて京都府長岡京市にあった城。
勝竜寺城・小竜寺城などの字もあてられる。

歴史・概略

  • 延元4年/暦応2年(1339年)、細川頼春(細川藤孝の祖)により築城されたといわれるが信ぴょう性は低い。
  • 永禄9年(1566年)、三好三人衆のひとり岩成友通(いわなり・ともみち)に攻められ落城した。
  • 永禄11年(1568年)、織田信長足利義昭を奉じて上洛、三好勢力下にあった摂津の諸城を攻撃した。その際に勝竜寺城も攻撃を受け落城した(勝竜寺城の戦い)
  • 元亀2年(1571年)、幕臣の細川藤孝が西岡(京都の西側)に領地をもらい入城した。この後、勝龍寺城が織田氏の京都支配の拠点となる。
  • 天正6年(1578年)、明智光秀の娘・お玉(後のガラシャ夫人)藤孝の嫡男・細川忠興(ほそかわ・ただおき)に輿入れし、勝龍寺城で生活を送った。
  • 天正10年(1582年)、明智光秀が「本能寺の変」を起こした直後、光秀の属城となる。
  • 天正10年(1582年)、羽柴秀吉が京都に攻め上り勝龍寺城のすぐ南の山崎において明智光秀と戦闘山崎の合戦。この戦いにおいて光秀は勝龍寺城を後方基地とした。
    「山崎の戦い」で敗北した光秀は、一旦は勝龍寺城に帰城したものの、この城では籠城戦を戦えないと判断し、城を抜け出して居城の坂本城を目指した。しかし、このあと光秀は落ち武者狩りによって命を落とすこととなった。
    これ以後しばらくの間、勝龍寺城は廃城状態であったと思われる。
  • 寛永10年(1633年)、旗本の永井直清が入府し、山城長岡藩が立藩。直清は勝龍寺城の改修を試みるも水はけの悪さから断念し、北側に新たな本丸を設けた。
  • 慶安2年(1649年)、廃城
  • 「山崎の合戦」前後の出来事
    6月2日 本能寺の変
    6月6日 羽柴秀吉が備中高松城より引き上げ(中国大返し)(日付は諸説あり)
    6月13日 山崎の合戦
    6月13日 明智光秀が戦いに敗れ勝龍寺城へ帰城
    6月13日 明智光秀が坂本城へ逃げる途中で絶命
    6月14日 坂本城落城
    6月15日 安土城本丸焼失
    6月27日 清須会議
  • 読み:しょうりゅうじじょう
  • 築城:延元4年/暦応2年(1339年)
  • 廃城:慶安2年(1649年)
  • 築城主:細川頼春?
  • 構造:平城・梯郭式
  • 主な城主:岩成友通細川藤孝など

見どころ・おすすめ

  • 土塁や空堀がかなりはっきりとした状態で残っている。土塁構造をタイルで示したり案内板なども設置されているので結構楽しめる。
  • この場所のすぐ南側には勝龍寺城跡がある。堀や模擬櫓などが復元された公園として整備されている。
  • 勝龍寺城だけに気をとられているとこの土塁は見過ごされてしまいがちだが、勝龍寺城に行った後にでも寄ってみるといい。

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勝龍寺城本丸跡 https://rekishidou.com/syouryujijo-2/ https://rekishidou.com/syouryujijo-2/#respond Sun, 22 Mar 2020 00:15:03 +0000 https://rekishidou.com/?p=9322 江戸時代初期、山城長岡藩の陣屋がおかれた場所。

歴史・概略

  • 勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)の始まりについて確かなことは不明であるが、山城守護の畠山義就が勝龍寺に陣を敷き、次第に勝龍寺城に発展していったとされる。その後三好三人衆織田との戦いが行われ、「山崎の合戦」の際には明智光秀が後衛の陣地として使用するなどしている。織田支配下では山城の重要拠点のひとつとされたが、豊臣政権下では重要視されず廃城状態となっていたようである。
  • 寛永10年(1633年)、旗本の永井直清が2万石(一説には1万2000石)の知行を得て山城国長岡に入った。
    入部当初、勝竜寺城の修築を試みたようであるが、あまりの水はけの悪さから修築を断念、勝竜寺城北側(今の長岡京駅周辺)の一帯に新たに陣屋を設けた。中心に本丸、それを囲むように武家屋敷、さらにその外側に足軽屋敷が置かれ、その範囲は小畑川から西国街道にまで及んでいた。
  • 慶安2年(1649年)、永井直清が3万6000石に加増、高槻藩に転封となり山城長岡藩は廃藩となった。

見どころ・おすすめ

  • ここにあるのは石碑のみで何か城を思わせるようなものは何もない。少し南に行ったところに復元された勝龍寺城土塁などが残されているので、そちらを回るのがおすすめ。

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