京都の山崎で羽柴秀吉軍が明智光秀軍を破った「山崎の戦い」が行われた地。
歴史・概略
- 天正10年(1582年)、明智光秀が京都本能寺において主君である織田信長を討ち取ることに成功。この「本能寺の変」の知らせを聞いて、すぐさま備中高松城より軍を引き返した羽柴秀吉軍(中国大返し)と光秀軍が、この山崎の地で激突した。
- 山崎は京都のすぐ西側にあり、大阪や西国とを結ぶ交通の要衝であるだけでなく、川と山に挟まれた戦略的にも非常に重要な場所であった。光秀はこの場所の出口(東側)に陣取って秀吉軍の各個撃破を画策したとみられる。
- 南北に流れる円明寺川(現・小泉川)を挟んで西側に秀吉軍約3万6千、東側に光秀軍約1万5千が対峙した。ちょうど石碑の辺りで両軍が激しく衝突したとみられるが、戦闘が始まると光秀軍は戦力に勝る秀吉軍に次第に押され、わずか1時間半ほどで秀吉軍の勝利に終わったという。
- 光秀はこの後、一旦は後方の勝竜寺城に逃げ帰るが、戦略的に不利と見て居城の坂本城を目指した。しかしその途中、落ち武者狩りに遭って命を落とすこととなった。
- 「山崎の合戦」前後の出来事
<天正10年>
6月 2日 本能寺の変
6月 6日 秀吉、備中高松城より引き上げ(中国大返し)(日付は諸説あり)
6月13日 山崎の合戦
6月13日 光秀、戦いに敗れ勝龍寺城へ帰城
6月13日 光秀、坂本城へ逃げる途中で絶命
6月14日 坂本城落城
6月15日 安土城本丸焼失
6月27日 清須会議
見どころ・おすすめ
- この場所では円明寺川(現・小泉川)の様子や天王山、明智光秀または斎藤利三の陣とされる境野1号墳を眺めることができる。
- 山崎から長岡京にかけて周辺には「山崎の合戦」に関連する史跡が点在しているので、同時に回るのがおすすめ。1日で全部を回り切るのは結構大変かもしれないが、合戦のスケール感が掴める。
- 天王山中腹の旗立松からは合戦場所周辺を俯瞰して見ることができる。
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史跡情報
地図 |
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【場所】 京都府乙訓郡大山崎町円明寺 【付近の史跡】
[ 北西・約0.4km ] 葛原親王塚伝承地(桓武平氏祖)
[ 北東・約0.5km ] 明智光秀本陣跡(境野1号墳)
[ 北西・約0.7km ] 葛原親王屋敷伝承地(桓武平氏祖)
[ 北東・約0.9km ] 中山修一記念館
[ 南西・約0.9km ] 大山崎の東黒門跡(山崎の合戦)
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主な施設 |
石碑のみ |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・阪急電車「西山天王山」駅から約1Km ・JR「山崎」駅から約2Km 【バス】 ・阪急バス「円明寺」「新山崎」バス停 【マイカー】 ・名神高速「大山崎IC」から約0.7Km ・駐車場あり |