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本能寺跡

本能寺跡 事件
本能寺跡

天正10年6月(1582年)、京都本能寺にいた織田信長を配下である明智光秀が急襲したいわゆる「本能寺の変」が起こった。ここは事件が発生した当夜に本能寺が建っていた場所である。今も御池通り沿いに本能寺が建っているが、これはその後に移動したものである。

歴史・概略

  • 当時の本能寺は、寺とはいっても信長上洛の際の宿所となっていたため、広大な敷地を持ち、堀や石垣などで囲まれ城のような作りであったという。
  • 事件発生当時、信長の手勢はわずかで重臣たちは京都からは遠く離れた場所にいた。筆頭家老の柴田勝家は北陸で上杉と対峙し、滝川一益は遠く関東に、徳川家康は少ない供のみで堺へ、羽柴秀吉は中国で毛利と対峙しており、光秀が京都制圧後にすぐに大軍が押し寄せる状況にはないと考えたと思われる。
    備中高松城

    事件発生時、秀吉がいた備中高松城

  • さらに織田家の家督を譲られた信忠が同じ日に京都に滞在したことも、光秀が事件を起こした要因の一つと考えられる。
  • 襲撃を受けた信長は「是非もなし!」との言葉を発したとされ、自ら弓をとって戦い最期は自害して果てた。さらに、このあと妙覚寺にいた信忠も襲撃を受け織田家の中心人物は完全に排除された。
    この事件を境に日本の歴史が大きく変わることとなった。
    二条殿址碑

    信忠最後の地となった二条殿跡

  • ただし、なぜ光秀がこのような事件を引き起こしたのかについて、いろいろな説が唱えられており、いまだ決着がついていない。
  • 「本能寺の変」前後の出来事
    <天正10年>
    3月11日 武田家滅亡
    5月 明智光秀が徳川家康の饗応役を務める
    5月28日 明智光秀が愛宕山で連歌の会を催す
    6月2日 本能寺の変
    6月13日 山崎の合戦
    6月27日 清須会議

見どころ・おすすめ

  • 実際本能寺が建っていたのはこの石碑の北側で、蛸薬師通と西洞院通、六角通、油小路通に囲まれたエリア。特に何も残っていないが10分もかからないので歩いてみるといい。
  • 1Kmほど北に行ったところに同じく「本能寺の変」で討ち死にした織田信忠が宿泊していた妙覚寺跡がある。と言っても町名に名を残すのみで、今は特に何も残ってはいないが行ってみるといい。その東隣が信忠が立て籠った二条殿で石碑が立てられている。

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施設データ

地図
住所:京都府京都市中京区 元本能寺南町
本能寺跡

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主な施設
石碑のみ
利用時間
常時
定休日
無休
料金
無料
交通
【電車】
・阪急電車「四条烏丸」駅から約0.7Km
・京都地下鉄「四条烏丸」駅から約0.7Km

【バス】
・市バス「堀川蛸薬師」「四条西洞院」「四条堀川」バス停

【マイカー】
・名神高速「京都南IC」から約6Km

コメント

  1. 昔はたった130メートル四方の小さい敷地でした

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