源氏物語 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Thu, 30 Nov 2023 11:18:21 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 源氏物語 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 二条院候補地(陽成院跡) https://rekishidou.com/yozein/ https://rekishidou.com/yozein/#respond Thu, 04 May 2023 10:27:30 +0000 https://rekishidou.com/?p=14344 平安時代の陽成上皇が御所とした邸宅跡。また、源氏物語の主人公である光源氏の邸宅のひとつである二条院の候補地ともなっている。

歴史・概略

  • 陽成天皇(ようぜいてんのう)は平安時代初期に在位した第57代天皇。暴君であったともいわれており、宮中での変死事件をきっかけに退位させられた。その結果、大叔父にあたる光孝天皇が即位し、皇統が移されることとなった。
    ただ、事件については謎が多く、実際は関係が悪かった藤原基経(ふじわら・もとつね/史上初の関白に就いたとされる実力者)によるでっち上げで、事件処理の正当性を保つために暴君としたとの見方もある。
  • 元慶8年(884年)、陽成天皇が譲位し、当地に遷って御所とした。屋敷は東西1町南北2町、案内板が立てられているのはちょうど真ん中あたりで、ここから北と南に1町の範囲に及ぶ。上皇崩御後は悪評を嫌ってか積極的に活用はされず、北側半分は宅地に、南側半分は荒れるに任された。
  • 源氏物語二条院は光源氏の主要な屋敷であり、母である桐壺更衣(きりつぼのこうい)の里内裏を光源氏が伝領し元服後に移り住んだ場所。
    陽成院の荒れるに任された南側の屋敷が二条院にあてられているが、説はほかにもあり確定はしていない。

見どころ・おすすめ

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平安宮内裏承香殿跡 https://rekishidou.com/jokyoden/ https://rekishidou.com/jokyoden/#respond Fri, 05 Aug 2016 02:09:47 +0000 http://rekishidou.com/?p=2518 平安京大内裏の承香殿(じょうきょうでん・しょうきょうでん)があった場所。

歴史・概略

  • 平安京(へいあんきょう)延暦13年(794年)、桓武天皇によって長岡京より遷都され、以来1000年に渡って日本の首都となった。この付近には都の中心である大内裏があり、その領域は東西1.2キロ、南北1.4キロに及んだ。大内裏内には天皇の居住区である内裏を始め、数多くの行政機関が立ち並んでいた。
  • この場所は天皇や后妃たちが住む内裏の奥部分にあたり、承香殿はそれらの建物である七殿五舎と呼ばれる建物のひとつであった。
    <七殿五舎>
    弘徽殿承香殿・麗景殿・登華殿・貞観殿・宣耀殿・常寧殿
    飛香舎凝花舎昭陽舎・淑景舎・襲芳舎
  • 大内裏の建物は出火によって度々焼失し、その都度再建されてきたが、朝廷の衰えとともに次第に荒廃していった。周辺には大内裏の痕跡を示す碑が点在している。
  • 【源氏物語】承香殿女御(朱雀帝の妃で今上帝の母)の住まいとして登場。

見どころ・おすすめ

  • かつて大内裏であったこの周辺には建物跡を示す多くの石碑が立てられているので、いろいろ廻ってみるといい。

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平安宮内裏弘徽殿跡 https://rekishidou.com/kokiden/ https://rekishidou.com/kokiden/#respond Thu, 07 Jul 2016 03:21:47 +0000 http://rekishidou.com/?p=2515 平安京大内裏の弘徽殿(こきでん)があった場所。

歴史・概略

  • 平安京は延暦13年(794年)、桓武天皇によって長岡京より遷都され、以来1000年に渡って日本の首都となった。この付近には都の中心である大内裏があり、その領域は東西1.2キロ、南北1.4キロに及んだ。大内裏内には天皇の居住区である内裏を始め、数多くの行政機関が立ち並んでいた。
  • ここは天皇や后妃、皇族たちが住む内裏の奥部分にあたる場所で、弘徽殿はそれらの建物を総称する七殿五舎のうちのひとつである。中でも最も格の高い殿舎といわれ、皇后や中宮が居住した建物である。
    <七殿五舎>
    弘徽殿承香殿・麗景殿・登華殿・貞観殿・宣耀殿・常寧殿
    飛香舎凝花舎昭陽舎・淑景舎・襲芳舎
  • 大内裏の建物は出火などにより度々焼失、再建をくりかえしてきた。しかし、朝廷の衰えとともに次第に荒廃、鎌倉時代初期にはまったく再建がされなくなった。周辺には大内裏の痕跡を示す碑が点在している。
  • 【源氏物語】弘徽殿女御(桐壺帝の妃で朱雀帝の母)および朧月夜(おぼろづきよ) の住まいとして登場。

見どころ・おすすめ

  • この周辺には大内裏にまつわる数多くの石碑が立てられているので、まとめて回るのがおすすめ。

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凝花舎(梅壺)・飛香舎(藤壺) 跡 https://rekishidou.com/fujitsubo/ https://rekishidou.com/fujitsubo/#respond Mon, 19 Sep 2022 05:49:49 +0000 http://rekishidou.com/?p=7230 平安京内裏内にあった皇族の屋敷跡。

歴史・概略

  • 延暦13年(794年)、桓武天皇(かんむてんのう)によって長岡京より平安京へ遷都、以来1000年に渡って日本の首都となった。
    平安京京域の北側にあたるこの付近一帯には大内裏(だいだいり)があり、その領域は東西1.2キロ、南北1.4キロに及んだ。大内裏とは天皇の居住区である内裏を始め数多くの行政機関が立ち並ぶ場所で、都の中心ともいえる場所であった。
  • この付近は大内裏の中でも内裏の北側奥部分にあたり、いわゆる後宮と呼ばれる場所である。エリア内には天皇の妃や子、世話をする女官などが住む建物が立ち並び、これらを七殿五舎と呼んだ。
    案内があるあたりには凝花舎(ぎょうかしゃ)があり、すぐ南側に飛香舎(ひぎょうしゃ)があった。
  • 【七殿五舎】
    弘徽殿承香殿・麗景殿・登華殿・貞観殿・宣耀殿・常寧殿
    飛香舎凝花舎昭陽舎・淑景舎・襲芳舎
  • 凝花舎(ぎょうかしゃ)は内裏の北西部にあった殿舎のひとつ。襲芳舎(しゅうほうしゃ/しほうしゃ)の南、弘徽殿(こきでん)の西、飛香舎(ひぎょうしゃ)の北。庭(壺)に紅白の梅が植えてあったことから梅壺(うめつぼ)とも呼ばれる。
    有名なところでは円融天皇女御の藤原詮子が住まいとしている。
  • 飛香舎(ひぎょうしゃ)は内裏の北西部にあった殿舎のひとつ。凝花舎(ぎょうかしゃ)の南、弘徽殿(こきでん)の西、清涼殿(せいりょうでん)の北。庭(壺)に藤が植えてあったことから藤壺(ふじつぼ)とも呼ばれる。
    有名なところでは一条天皇中宮の藤原彰子三条天皇中宮の藤原妍子後一条天皇中宮の藤原威子などが住まいとしている。
  • 【源氏物語】藤壺中宮(桐壺帝の中宮)の住まい。彼女は主要人物のひとりで光源氏が初めて思いを寄せた女性である。作者の紫式部が仕えた藤原彰子が屋敷の主人であったことが物語に影響を与えたといわれる。

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源氏物語──平安時代の優美で複雑な世界に触れると、まるでタイムトラベルしたような感覚に包まれます。ですが、初めてこの文学に触れた人は煩雑な古文や謎めいた人物たち...

見どころ・おすすめ

  • かつての大内裏跡地は、いまは住宅地となっており当時を思わせるものは何も残っていない。ただ、石碑があちこちに立てられているのでまわってみるのがおすすめ。

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源融河原院跡 https://rekishidou.com/kawaranoin/ https://rekishidou.com/kawaranoin/#respond Tue, 26 Apr 2016 04:12:17 +0000 http://rekishidou.com/?p=1070 平安時代の元皇族で政治家・源融の邸宅跡。

歴史・概略

  • 源融(みなもとのとおる)平安時代初期に在位した嵯峨天皇の皇子で、長きにわたり朝廷に仕え従一位・左大臣の官位を受けるなどし出世を果たした人物。嵯峨源氏(渡辺綱や肥前松浦氏)の祖としても知られ、ほかにも紫式部が宮中を舞台に様々な色恋を描いた長編小説『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルであるともいわれている。
  • 六条河原院(かわらのいん)源融が賀茂川の西岸に造営した邸宅で、その敷地はたいへん広く4町あったとも8町あったともいわれる。奥州の塩竈の風景を模して作庭され、わざわざ海から海水を運ばせ塩造りを楽しんだという。
  • 源融の子・源昇の代に屋敷が宇多上皇に献上され、仙洞御所ともなった。
  • 京都の繁華街のある河原町通という名の由来になったともいわれている。
  • 源氏物語光源氏が邸宅としていた六条院のモデルのひとつ。

見どころ・おすすめ

  • 南西に500メートルほど行ったところに、屋敷の一部だったという渉成園(現在は東本願寺の飛地)がある。
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朱雀院跡 https://rekishidou.com/suzakuinato/ https://rekishidou.com/suzakuinato/#respond Wed, 20 Apr 2016 00:31:39 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=359 平安時代、天皇が譲位後の御所として使用した後院跡。

歴史・概略

  • 朱雀院(すざくいん)平安京の中央を貫く朱雀大路の西側に作られ、現在の三条通りから四条通りにかけての南北4町、東西2町に及ぶ広大な敷地を有しており、後院として平安京最大の規模であった。
  • 【源氏物語】桐壺帝の父一院(光源氏の祖父)および朱雀院(光源氏の異母兄)の御所として登場。
  • その歴史は平安時代初期の第52代嵯峨天皇が造営したことに始まり、その後第54代仁明天皇が拡充した。後院としては第59代宇多天皇が用いたことが最初とされる。以降醍醐天皇朱雀天皇など累代の天皇が後院として使用した。
  • 天暦4年(950年)、火災により焼失。
  • 応和3年(963年)、村上天皇により再建。

見どころ・おすすめ

  • この西に同時代の離宮・淳和院跡があるのでそちらも合わせてどうぞ。
  • 石碑のみで特に有名な史跡でもないので近くの壬生散策のついでにでも行ったらどうでしょう。

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