高師直 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Tue, 16 May 2023 12:30:14 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 高師直 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 金峯山寺(南朝行宮跡) https://rekishidou.com/kinpusenji/ https://rekishidou.com/kinpusenji/#respond Sat, 12 Dec 2020 09:04:23 +0000 http://rekishidou.com/?p=4483 奈良県吉野郡吉野町にある金峯山修験本宗(修験道)の本山。京都を脱出した後醍醐天皇が南朝を開いた場所として知られる。

歴史・概略

  • 金峯山寺(きんぷせんじ)役小角(えんのおづぬ)によって開かれた修験道の本山である。周辺の山や麓の多くの子院からなり、今は独立しているが山上ヶ岳にある大峯山寺もそのひとつだった。
    今は桜の名所として広く知られている。
  • 飛鳥時代(7世紀後半)、役小角により開基されたと伝わる。
  • 元弘3年(1333年)、鎌倉幕府の倒幕運動である「元弘の乱」が起こった際には、後醍醐天皇の皇子である護良親王が吉野で挙兵、幕府軍と戦った。
  • 延元元年/建武3年(1336年)、足利尊氏によって幽閉されていた後醍醐天皇が京都を脱出、穴生(後の賀名生)を経て、金峯山寺の僧坊である吉水院(きっすいいん・現吉水神社)に入った。後に塔頭のひとつ実城寺に遷って行宮とし、寺名を「金輪王寺」に改めた。
  • 延元4年/暦応2年(1339年)、後醍醐天皇が自身の皇子である後村上天皇に譲位、翌日崩御した。
  • 正平3年/貞和4年(1348年)、「四條畷の戦い」により南朝の有力武将・楠木正行(くすのき・まさつら)を下した高師直(こう・もろなお)が吉野を襲撃、行宮と金峯山寺を焼き討ちした。これにより後村上天皇は吉野を脱出、後に賀名生を行宮とした。
  • 正平23年/応安元年(1368年)、後村上天皇が住吉行宮において崩御。後村上天皇の皇子である長慶天皇(ちょうけいてんのう)が即位した。
  • 正平23年/応安元年(1368年)、南朝の有力武将・楠木正儀(くすのき・まさのり)が北朝に下ったため、一旦吉野へと後退した。
  • 正平24年/応安2年(1369年)、後村上天皇時代に行宮としていた金剛寺を再び行宮とした。
  • 天野山金剛寺

    南朝の拠点となった天野山金剛寺(大阪府河内長野市)

  • 文中2年/応安6年(1373年)、北朝からの攻撃を受け、再び行宮を吉野に遷した。
  • 天授5年/康暦元年(1379年)以前、栄山寺を行宮とした。
  • 慶長19年(1614年)、徳川家康の側近であった天海が学頭となり、天台宗傘下に置かれた。
  • 明治7年(1874年)、廃仏毀釈の流れを受け廃寺。
  • 明治19年(1886年)、復興。

【南朝の行宮の変遷】

年号 行在所 天皇
延元元年/建武3年(1336年) 吉野(奈良) 後醍醐天皇
後村上天皇
正平3年/貞和4年(1348年) 賀名生(奈良) 後村上天皇
正平6年/観応2年(1351年) 正平一統
正平7年/観応3年(1352年) 住吉(大坂) 後村上天皇
正平7年/観応3年(1352年) 賀名生(奈良) 後村上天皇
正平9年/文和3年(1354年) 金剛寺(大坂) 後村上天皇
正平15年/延文5年(1360年) 住吉(大坂) 後村上天皇
長慶天皇
正平23年/応安元年(1368年) 吉野(奈良) 長慶天皇
正平24年/応安2年(1369年) 金剛寺(大坂) 長慶天皇
文中2年/応安6年(1373年) 吉野(奈良) 長慶天皇
天授5年/康暦元年(1379年)以前 賀名生/栄山寺(奈良) 長慶天皇
後亀山天皇
元中9年/明徳3年(1392年) 南北朝合一

※資料の記述に揺れがあるので、あくまで参考程度に
※賀名生と栄山寺は同時期に行宮とされているので判断つかず

見どころ・おすすめ

  • 蔵王堂(本堂)-国宝。高師直の攻撃により焼失。現在の建物は天正20年(1592年)頃の再建。
  • 仁王門-国宝。南北朝時代頃の建物とされる。
  • 吉野朝宮址碑-後醍醐天皇が南朝の拠点とした実城寺の跡。現在は南朝妙法殿が建てられ、南朝の天皇とそれに尽くした人たちを祀っている。
  • 二天門跡村上義光公忠死之所碑-挙兵した護良親王が幕府軍から逃げる際、身代わりとなって自刃した村上義光(むらかみ・よしてる)を称える碑。
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西陣舟橋(高師直邸跡) https://rekishidou.com/nishijinfunabashi/ https://rekishidou.com/nishijinfunabashi/#respond Fri, 23 Aug 2019 03:50:50 +0000 http://rekishidou.com/?p=3235 その昔、ここを流れていた堀川に何艘もの舟を浮かべ、その舟同士を繋いで橋代わりとした舟橋があったといわれる。また、室町時代初期には政権の実力者であった高師直の屋敷があった場所である。

歴史・概略

  • 高師直(こうのもろなお)室町幕府初代将軍・足利尊氏に古くより仕え、倒幕運動や南北朝動乱で活躍、幕府内で執事を務めるなど政権ナンバー2ともいえる人物であった。しかし、同じく政権内の実力者であった尊氏の弟・足利直義(あしかが・ただよし)と激しく対立、武力衝突に至った。最終的に直義派により殺害され、高氏は政権より排除されてしまった観応の擾乱:かんのうのじょうらん)
  • 堀川はかつて京都を南北に流れていた水流で、平安京造営時の整備によって開削され運河として利用されてきた。しかし戦後の都市整備により水流は無くなり、堀川通に名を残すのみであったが、最近の環境意識の高まりから一部で堀川の流れが復活し、市民の憩いの場となっている。
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法成寺跡(藤原道長創建) https://rekishidou.com/hojoji/ https://rekishidou.com/hojoji/#comments Tue, 15 Mar 2016 06:20:50 +0000 http://rekishidou.com/?p=1072 法成寺(ほうじょうじ)は平安時代から鎌倉時代にかけて、京都にあった仏教寺院。栄華を極めた藤原道長が創建し、最後を迎えた場所である。

歴史・概略

  • 碑文「従是東北 法成寺址」
    京都鴨川の西岸、この石碑の北側2町四方以上に及んだ。
  • 寛仁3年(1019年)に出家した藤原道長が自邸である土御門邸(つちみかどてい)の東隣に九体阿弥陀堂の建立を発願、翌年に落慶した。創建当時は無量寿院と称している。
  • 以後も次々と堂宇の整備を行っており、鴨川から見える大伽藍の姿は宇治にある平等院のモデルになったともいわれている。まさに当時の道長の権力の大きさを表していたといえる。
  • この寺院は京極御堂とも呼ばれ、道長が「御堂関白(みどうかんぱく)」と呼ばれるきっかけともなった。
  • 治安2年(1022年)、寺名を法成寺に改める。
  • 万寿4年(1028年)、道長が阿弥陀堂において死去。享年62歳。
  • 天喜元年(1053年)、道長の嫡子・藤原頼通(ふじわら・よりみち)によって平等院鳳凰堂が建てられる。同じく浄土式庭園であった法成寺をモデルに造られたといわれる。
  • 承保元年(1074年)、道長の娘で一条天皇の中宮として後一条天皇後朱雀天皇を産み道長の権力基盤を作った藤原彰子(上東門院)が阿弥陀堂において死去。享年87歳。
  • 道長の死後も新たな堂宇が建てられるなどしばらくは繁栄が続いた。その後寺院は度々焼失するなどの被害を受けその度に再建されていったが、鎌倉時代になり公家から武士へと権力が移り、それに合わせて藤原氏の力が衰えていくと被災後の再建はされなくなり廃れてしまった。
  • 貞和5年/正平4年(1349年)、足利直義高師直が政権内で対立し師直と弟の高師泰が挙兵。この付近に布陣し直義が逃げ込んだ足利尊氏の屋敷を取り囲んだ。後に和解が成立するも政権は分裂「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」へと発展した。

見どころ・おすすめ

  • ここは石碑のみなので京都御苑に行ったついでにでも回るのがよいかと。

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