山縣有朋 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Sun, 12 Mar 2023 06:43:32 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 山縣有朋 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 松下村塾 https://rekishidou.com/syokasonjuku/ https://rekishidou.com/syokasonjuku/#respond Thu, 03 Mar 2016 05:22:04 +0000 http://rekishidou.com/?p=1946 江戸時代末期、吉田松陰によって萩城下に開かれた私塾。

歴史・概略

  • 吉田松陰(よしだ・しょういん)は長州藩士の杉家に生まれ、幼名を寅之助といった。後に叔父である兵学師範・吉田大助の養子となり、私塾「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を主宰、江戸幕府による徹底弾圧「安政の大獄」によって死罪となった。
  • 松陰の叔父の玉木文之進天保13年(1842年)に開いた松下村塾が始まり。身分に関係なく塾生を受け入れたと言い、幼かった松陰自身も入門している。その後、安政4年(1857年)松陰が28歳のとき塾を引き継いだが、松陰はすぐに投獄されてしまった。そのため、主宰していたのは1年ほどのわずかな期間であったが、高杉晋作久坂玄瑞吉田稔麿入江九一寺島忠三郎伊藤博文山縣有朋など、幕末から明治にかけて活躍する数多くの人材を輩出した。
  • 世界遺産(明治日本の産業革命遺産)
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萩城跡指月公園 https://rekishidou.com/hagijo/ https://rekishidou.com/hagijo/#respond Thu, 03 Mar 2016 11:43:18 +0000 http://rekishidou.com/?p=2091 山口県萩市にあった城。江戸時代、毛利氏を藩主とした萩藩(長州藩)の藩庁。

歴史・概略

戦国時代、中国の覇者となった毛利元就の嫡孫・毛利輝元豊臣秀吉に仕え、中国地方のほとんどを所領とする大大名となった。しかし、秀吉の死後勃発した「関ケ原の戦い」において、西軍総大将となり敗戦、所領が周防国と長門国の2か国のみと大幅に減封された。その際、それまで居城としていた広島城からの移転先として、慶長9年(1604年)、指月山に築城されたのが萩城である。

幕末には薩摩藩と合わせ長州藩が倒幕の中心勢力となり、長州藩の人材が大政奉還以後の明治新政府の中枢を担った。


松下村塾

幕末から明治にかけて活躍する多くの人材を輩出した松下村塾(山口県萩市)

  • 築城:慶長9年(1604年)
  • 廃城:明治7年(1874年)
  • 築城主:毛利輝元
  • 構造:梯郭式・平山城
  • 主な城主:毛利氏
  • 日本100名城
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角倉了以別邸跡 https://rekishidou.com/suminokurabettei/ https://rekishidou.com/suminokurabettei/#respond Tue, 08 Mar 2016 00:43:35 +0000 http://rekishidou.com/?p=2069 京都の豪商・角倉了以が京都市中心部に流れる高瀬川源流部に建設した屋敷跡。

歴史・概略

  • 角倉了以(すみのくら・りょうい)は、江戸時代初期の京都の豪商。茶屋四郎次郎の茶屋家、後藤庄三郎の後藤家とともに「京の三長者」と呼ばれた。
  • 朱印船貿易によって莫大な富を得た了以は、大堰川や高瀬川などの開削を行い、その後舟運が盛んに行なわれるようになった。高瀬川一の舟入付近には屋敷を建て、その向かいの高瀬川源流にあたる部分には庭園を造り別邸とした。
  • 明治以降は、大物政治家のひとり山縣有朋が屋敷を購入し庭を改修、第二無鄰菴(むりんあん)と称する別邸を構えた。

見どころ・おすすめ

  • 高瀬川には一之船入跡が残されており、高瀬舟が浮かんでいた様子も再現されている。
  • 道を挟んだ正面には、了以の屋敷跡(現・日本銀行京都支店)がある。
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