佐久間象山 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Sun, 12 Mar 2023 02:46:26 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 佐久間象山 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 象山先生遭難碑 https://rekishidou.com/syozansonan/ https://rekishidou.com/syozansonan/#respond Sun, 06 Mar 2016 00:21:46 +0000 http://rekishidou.com/?p=2056 幕末の兵学者・佐久間象山が京都木屋町で刺客に襲われ命を落とした場所。

歴史・概略

  • 佐久間象山(さくま・しょうざん)。ほかに修理(しゅり)国忠(くにただ)啓(ひらき)子迪(してき)子明(しめい)など。
    信濃松代藩士で兵学・洋学を学び、大砲の鋳造や日本初の電信を行うなどした人物。そして幕府の要請で京都に入った象山は、一橋慶喜(後の徳川慶喜)に公武合体と開国の必要性を説いた。
  • しかし、こうした考えは尊王攘夷派から「西洋かぶれ」と見られ命を狙われることとなり、元治元年7月11日(1864年8月12日)、山階宮家より馬に乗って帰る途中、尊王攘夷派の前田伊右衛門河上彦斎らによって暗殺された。

見どころ・おすすめ

  • 京都木屋町周辺は幕末の志士たちの多くが住み、事件の現場ともなった場所でたくさんの石碑が立てられている。
  • 少し南に佐久間象山寓居址を示す石碑がある。

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佐久間象山寓居址 https://rekishidou.com/syozangukyo/ https://rekishidou.com/syozangukyo/#respond Fri, 04 Mar 2016 09:11:52 +0000 http://rekishidou.com/?p=2051 幕末の思想家・佐久間象山の京都における寓居跡。

歴史・概略

  • 佐久間象山(さくま・しょうざん)は、文化8年(1811年)に信濃松代藩士・佐久間国善の長男に生まれ、幼少の頃より勉学に励んだ兵学者であり思想家でもある。名は国忠(くにただ)または啓(ひらき)で、後に象山を号した。
  • 父の国善が亡くなった後は、江戸に出て学問に励んだ。韮山反射炉や品川台場を築造したことで知られる江川英龍の下で兵学を学んだ後、藩主の真田幸貫に「海防八策」を上書したり、大砲を鋳造するなどし名声を高めていった。
  • 吉田松陰のペリー艦隊密航事件により失脚するが、元治元年(1864年)、一橋慶喜(徳川慶喜)の招きに応じて上京、慶喜に自説を説いた。
    しかし同じ年の7月11日(8月12日)、山階宮家からの帰り道、象山の考えを「西洋かぶれ」として敵対視する尊王攘夷派の手にかかって暗殺された。実行犯は河上彦斎前田伊右衛門ら強硬派。享年54。
  • 象山の門弟の中には吉田松陰勝海舟河井継之助橋本左内坂本龍馬など、後の歴史に名を刻む人材が数多くいた。

見どころ・おすすめ

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松代城 https://rekishidou.com/matsushirojo/ https://rekishidou.com/matsushirojo/#respond Sun, 17 Jan 2016 04:25:13 +0000 http://rekishidou.com/?p=963 長野県長野市にあった城。江戸時代の松代藩の藩庁。

歴史・概略

永禄3年(1560年)、北信濃の支配を目指す武田信玄が家臣の山本勘助に命じて海津城を築いたことに始まる。

川中島の戦い八幡原の戦い)」では、海津城を見下ろす位置にある妻女山上杉謙信が布陣し、茶臼山に陣を敷いていた武田信玄は海津城に軍を移してにらみ合った。その後、挟み撃ちにしようと考えた武田軍が妻女山と八幡原に軍を展開し、それを察知し前もって山を降りた上杉軍との間で激戦となって両軍とも大きな被害がでた。


妻女山

謙信が陣を敷いた妻女山(長野県長野市)

武田氏滅亡後は織田信長配下の森長可が入るが、直後に「本能寺の変」が起こり、城は放棄された。

その後は田丸直昌森忠政松平忠輝松平忠昌酒井忠勝と次々に城主が代わっていった。落ち着いたのは真田幸村(信繁)の兄である真田信之の入府後で、以降は明治維新に至るまで真田氏が代々藩主を務めた。

  • 築城:永禄3年(1560年)
  • 廃城:明治6年(1873年)
  • 築城主:武田信玄
  • 構造:輪郭式・平城
  • 主な城主:武田氏・田丸氏・森氏・真田氏
  • 日本100名城
  • 永禄3年(1560年)、武田信玄が海津城を築城
  • 永禄4年(1561年)、八幡原の戦い(川中島の戦い)
  • 天正10年(1582年)、武田氏滅亡
  • 天正10年(1582年)、本能寺の変
  • 慶長5年(1600年)、待城(まつしろ)へ名称変更
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦い
  • 元和2年(1616年)、松城へ名称変更
  • 元和8年(1622年)、真田信之が城主となる
  • 正徳元年(1711年)、松代城に改名
  • 享保2年(1717年)、本丸、二ノ丸、三の丸を焼失
  • 弘化4年(1847年)、善光寺地震により建物が大破
  • 明治5年(1872年)、廃城
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