源義朝 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Mon, 20 Mar 2023 05:22:25 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 源義朝 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 若宮八幡宮(河内源氏屋敷) https://rekishidou.com/wakamiyahachiman/ https://rekishidou.com/wakamiyahachiman/#respond Tue, 26 Apr 2016 00:08:18 +0000 http://rekishidou.com/?p=1270 平安時代、河内源氏累代の邸宅として使われた六条堀川館跡。

歴史・概略

  • 平安時代中期の武将で河内源氏の棟梁・源頼義(みなもとよりよし)が屋敷を構えたことに始まり、以後河内源氏の本拠地となった。その頼義の子で「前九年の役」「後三年の役」で活躍した源義家(みなもとよしいえ・八幡太郎義家)の誕生地ともされる。
    平清盛(たいらきよもり)の時代には「保元の乱」「平治の乱」を起こした源義朝(みなもとよしとも)が邸宅としていた。
  • 若宮八幡は頼義が邸内に創建した石清水八幡宮の若宮で、六条八幡、左女牛井(さめがい)八幡とも呼ばれ、源氏からの崇敬を得ていたという。

見どころ・おすすめ

  • 若宮八幡から西に行った堀川通りには、邸内にあったとされる左女牛井の跡を示す碑が立っている。

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左女牛井之跡(河内源氏屋敷) https://rekishidou.com/samegai/ https://rekishidou.com/samegai/#respond Sat, 23 Apr 2016 03:29:53 +0000 http://rekishidou.com/?p=1258 京の名水のひとつ左女牛井の跡。平安時代に活躍した武将源頼義源義家ら河内源氏の屋敷跡とされる。

歴史・概略

  • 左女牛井(さめがい)は平安時代より京の名水として知られ、村田珠光千利休なども愛用したとされるが、昭和になって堀河通りの拡張により消滅した。今はその跡を示す石碑のみが立てられている。
  • この辺りには平安時代中期の武将源頼義(みなもとよりよし)によって築かれた六条堀川館があり、それ以後は源氏累代の邸として使用された。左女牛井はこの邸内にあった井戸とされる。
  • 平安時代末期、源義経(みなもとよしつね)が兄の源頼朝(みなもとよりとも)との対立によって都を離れる際に六条堀川館は焼き払われたという。

見どころ・おすすめ

  • ここから少し東行くと邸内にあったといわれる若宮八幡宮がある。

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源義経産湯井ノ遺跡 https://rekishidou.com/yoshitsuneubuyu/ https://rekishidou.com/yoshitsuneubuyu/#respond Mon, 13 Jun 2016 01:13:17 +0000 http://rekishidou.com/?p=1137 牛若丸(後の源義経)が産まれた際の産湯に使われたとされる井戸跡。

歴史・概略

  • この付近には義経の父・源義朝(みなもと・よしとも)の別邸があったとされる。平治元年(1159年)、この屋敷内で母・常盤御前のもと義経が誕生、牛若丸と名付けられた。
  • しかし義経が生まれた直後「平治の乱」が勃発、義朝は戦いに敗れ命を落とした。そしてまだ幼い義経は母の常盤御前に連れられ兄たちとともに大和へと逃れることとなった。

見どころ・おすすめ

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牛若丸誕生井・胞衣塚 https://rekishidou.com/yoshitsunetanjoui/ https://rekishidou.com/yoshitsunetanjoui/#respond Sun, 12 Jun 2016 01:33:22 +0000 http://rekishidou.com/?p=1135 牛若丸(後の源義経)が誕生したとされる屋敷跡。

歴史・概略

  • この付近には義経の父・源義朝(みなもと・よしとも)の別邸があったとされる。平治元年(1159年)義経常盤御前によってこの屋敷内で産み落とされ牛若丸と名付けられた。しかし義経が生まれた直後に発生した「平治の乱」によって父・義朝は殺され、母子ともども屋敷を追われた。
  • 屋敷跡には義経が生まれた際に使われたという井戸跡を示す碑と、義経のへその緒を埋めたと伝わる胞衣塚が残っている。

見どころ・おすすめ

  • ここから少し離れた場所にも義経誕生の際に使われたという井戸跡を示す石碑が立っている。

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三条東殿遺址「平治の乱」勃発の地 https://rekishidou.com/sanjohigasidono/ https://rekishidou.com/sanjohigasidono/#respond Tue, 17 Nov 2020 05:38:27 +0000 http://rekishidou.com/?p=1089 平安時代から鎌倉時代にかけての藤原氏の邸宅、および皇族の御所跡。「平治の乱」が勃発するきっかけとなった戦闘が起こった地。

歴史・概略

  • 平安時代中期、ここには伊予守・藤原済家の邸宅があったとされる。その後、宮内卿・藤原家通藤原家保を経て、天治2年(1125年)白河法皇に渡った。法皇は殿舎を整えてここを院御所とした。
    同時期、西隣にも御所が置かれており、それぞれ三条東殿(三條東殿)、三条西殿(三條西殿)と呼ばれた。
  • 三条西殿跡

    三条西殿跡(京都府京都市)

  • 白河法皇の崩御後は、法皇の孫にあたる鳥羽上皇が院御所とし、中宮の待賢門院(たいけんもんいん・藤原璋子)とともに過ごした。
  • 長承元年(1132年)、火災により焼失。後に再建される。
  • 後白河法皇が院御所とする。
  • 平治元年12月9日(1160年1月19日)、後白河上皇二条天皇それぞれを推す派閥に分裂し、天皇を推す藤原信頼源義朝らが三条東殿を襲撃した。上皇と上西門院(法皇の姉)は捕らえられ幽閉、殿舎は焼失した。
    これにより「平治の乱」が勃発、乱の勝者となった平清盛が躍進していくきっかけとなった。
  • この後、後白河上皇は東山に法住寺殿を建設、焼失した三条東殿に代わる新たな拠点とした。
  • 廃された時期は不明だが、鎌倉時代初期までは存在が確認できる。

見どころ・おすすめ

  • この周辺には平安時代頃に使われた御所跡が多く点在する。石碑ばかりだが、まとめて回ってみるといい。

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高松殿跡 https://rekishidou.com/takamatsudono/ https://rekishidou.com/takamatsudono/#respond Sun, 22 May 2016 03:38:01 +0000 http://rekishidou.com/?p=1087 平安時代、歴代上皇が院御所とした邸宅跡

歴史・概略

見どころ・おすすめ

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