源頼朝 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Mon, 20 Mar 2023 04:09:31 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 源頼朝 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 富士川の戦い(平家越) https://rekishidou.com/fujigawanotatakai/ https://rekishidou.com/fujigawanotatakai/#respond Thu, 21 Jan 2016 10:10:02 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=460 治承4年(1180年)に起きた「富士川の戦い」の際、源氏と平氏が対峙した辺りとされ、「平家越」と呼ばれる。

歴史・概略

  • 遡ること二ヵ月前、平家によって伊豆に流されていた源頼朝が挙兵した。しかし「石橋山の戦い」において平家軍の反攻に遭い、命からがら安房国へと逃げ延びるという散々な結果となった。
    だが、その後頼朝が西へと兵を進めるうち、反平氏勢力を次々と味方につけることに成功、本拠とした鎌倉に入るころにはその数は数万騎へと膨れ上がったという。
  • 一方の平家軍は、頼朝再挙兵の報を受けて平家の頭領である平清盛(たいら・きよもり)が、平維盛(たいら・これもり)を総大将とした追討軍を組織して関東へ派遣、治承4年10月20日(1180年11月9日)に西に兵を進めた頼朝軍と富士川を挟んで源氏の軍と対峙した。
    しかしその夜半、夜襲を警戒していた平家軍が、近くで休んでいた水鳥達が一斉に飛び立つのを見た。この音に源氏軍が襲ってきたと勘違いした平家軍は、混乱に陥って戦わずして敗走したといわれる。
  • この戦いで大敗を喫した平家一門は勢力を落とし、逆に頼朝は関東全域を手中に収めた。この後は北陸方面を抑えた木曽義仲(きそ・よしなか)らとともに、頼朝は平家を脅かす一大勢力となっていった。
  • 「富士川の戦い」に至るおもな出来事
    治承4年
    4月 9日 以仁王が平家討伐の令旨を下す
    5月26日 宇治平等院の戦い
    8月17日 山木館襲撃
    8月23日 石橋山の戦い
    8月25日 波志田山合戦
    8月26日 衣笠城合戦
    10月20日 富士川の戦い

見どころ・おすすめ

  • 周辺に関連史跡はないが、車であれば富士宮市の曾我兄弟の仇討ち関連史跡や、少し東へ行ったところにある頼朝・義経対面石なども一緒に回るといいかも。

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鶴岡八幡宮 https://rekishidou.com/tsurugaoka/ https://rekishidou.com/tsurugaoka/#respond Tue, 07 Apr 2020 10:08:27 +0000 http://rekishidou.com/?p=4807 神奈川県鎌倉市にある平安時代に創建された神社。

歴史・概略

  • 大分県の宇佐神宮・京都府の石清水八幡宮とともに三大八幡宮と呼ばれる(鶴岡八幡宮の代わりに福岡県の筥崎宮とする場合もある)。
  • 康平6年(1063年)、「前九年の役」で奥州を平定した源頼義(みなもと・よりよし)が京都の石清水八幡宮を鎌倉に祀ったことに始まる。
  • 永保元年(1081年)、頼義の子・源義家が修復を行う。
  • 治承4年(1180年)、打倒平家の挙兵をし鎌倉に入った源頼朝(義家の後裔)が現在の場所に遷座。頼義・義家の数多い末裔たちの中で頼朝こそが正統な後継者であることをアピール。
    これ以後は鎌倉の中心的施設となる。
  • 建保5年(1217年)、前将軍源頼家の子(実朝の甥)公暁(こうぎょう)が別当に就任。
  • 建保7年1月27日(1219年2月13日)、将軍源実朝が右大臣昇任を祝うため八幡宮に拝賀。その後実朝が参拝を終え大階段に差し掛かったところで公暁の襲撃を受けて落命、公暁はすぐに討ち取られる。暗殺の際、階段脇の銀杏に公暁が身を隠していたといわれ、この銀杏は「隠れ銀杏」と呼ばれる。
  • 大永6年(1526年)、「鶴岡八幡宮の戦い」により社殿が焼失。
  • 天文9年(1540年)、北条氏綱が社殿を再建。
  • 文政11年(1828年)、江戸幕府11代将軍・徳川家斉によって社殿が造営される。
  • 大正12年(1923年)、関東大震災によって社殿が損壊。
  • 平成22年(2010年)、実朝暗殺の際に公暁が身を隠したと伝わる「隠れ銀杏」が倒壊。

見どころ・おすすめ

  • 鎌倉は鎌倉時代に武家の中心地となり、さらに室町時代には関東支配の中心地となっていたため、数多くの遺構が点在する。これらを巡るだけでも一日ではまったく足らない。腰を据えて何日か掛けて巡った方がよい。
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石橋山古戦場(源平合戦) https://rekishidou.com/ishibashiyama/ https://rekishidou.com/ishibashiyama/#respond Wed, 20 Jan 2016 05:04:53 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=464 治承・寿永の乱(源平合戦)」における戦いのひとつで、「石橋山の戦い」が起こった場所。

歴史・概略

  • 治承4年(1180年)8月、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が出した平家追討の令旨を受けて、伊豆へ配流の身となっていた源頼朝が挙兵する。頼朝は伊豆国の目代(もくだい・代官のこと)である山木兼隆(平兼隆)の館を襲撃、兼隆を討ち取ることに成功した。
  • しかし、こうした動きに平家方の相模国武将・大庭景親(おおば・かげちか)らは、頼朝を討つべくすぐに兵を向かわせた。頼朝は石橋山に布陣、こうして治承4年8月23日(1180年9月14日)、両軍が激突した。
    平家方の兵力は約3000騎、対する頼朝方は味方である三浦一族が合流できなかったこともあって、わずか300騎ほどの兵力しかなかった。圧倒的な兵力差を前に頼朝軍は敗北、ちりぢりに敗走した。
  • 山中に辛くも逃れた頼朝は、身を隠しながら真鶴から海を渡って房総半島へと向かった。そして、この戦いから約2カ月が経った10月、反平氏の兵を集め再び平家軍と対峙、「富士川の戦い」で平家軍に勝利を収めた。
    この勝利により頼朝は関東の支配権を確立、平家を脅かす勢力へと拡大していった。
  • 「石橋山の戦い」前後のおもな出来事
    <治承4年>
    4月 9日 以仁王が平家討伐の令旨を下す
    5月26日 宇治平等院の戦い
    8月17日 山木館襲撃
    8月23日 石橋山の戦い
    8月25日 波志田山合戦
    8月26日 衣笠城合戦
    10月20日 富士川の戦い

見どころ・おすすめ

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しとどの窟(湯河原) https://rekishidou.com/shitodonoiwaya-2/ https://rekishidou.com/shitodonoiwaya-2/#comments Wed, 20 Jan 2016 12:12:01 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=603 治承4年(1180年)に起こった「石橋山の戦い」において、平家軍に敗れた源頼朝が追撃から逃れるため、隠れ潜んだといわれる洞窟。

歴史・概略

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しとどの窟(真鶴) https://rekishidou.com/shitodonoiwaya/ https://rekishidou.com/shitodonoiwaya/#respond Thu, 21 Jan 2016 00:47:40 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=601 治承4年(1180年)に勃発した「石橋山の戦い」において敗走した源頼朝が、平家の追撃から身を隠すために潜んだといわれる洞窟。

歴史・概略

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頼朝・義経対面石 https://rekishidou.com/taimenishi/ https://rekishidou.com/taimenishi/#comments Fri, 22 Jan 2016 02:15:16 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=466 平安時代末期に平家打倒の兵を挙げた兄・源頼朝と、それを聞きつけ奥州より駆け付けた弟・源義経が対面を果たした。
八幡神社の一角にこのとき二人が腰かけたとされる対面石という二つの石がある。

歴史・概略

  • 富士川の戦い」で平家軍に勝利を収めた翌日、義経は富士川の東に位置する黄瀬川(きせがわ)に陣を張っていた頼朝に対面を願い出る。
    しかし、これを怪しんだ家臣たちは頼朝に合わせようとはしなかったが、頼朝はそれが弟の義経であることを見抜き、対面を果たした。二人は平家によって政権中枢より追い落された源氏再興の思いを語り、手をとって涙を流したと言われる。
  • これ以後、義経頼朝の旗のもと軍の指揮をとるようになり、平家との戦いで勝利を重ねていった。
  • 「源平の合戦」に関わるおもな戦闘
    1180年 宇治平等院の戦い
    1180年 石橋山の戦い
    1180年 富士川の戦い
    1183年 倶利伽羅峠の戦い
    1184年 宇治川の戦い
    1184年 粟津の戦い
    1184年 一ノ谷の戦い
    1185年 屋島の戦い
    1185年 壇ノ浦の戦い
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