会津戦争 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Wed, 22 Mar 2023 01:07:13 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 会津戦争 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 鶴ヶ城(会津若松城) https://rekishidou.com/tsurugajo/ https://rekishidou.com/tsurugajo/#respond Sat, 13 Feb 2016 00:58:56 +0000 http://rekishidou.com/?p=1649 福島県会津若松市にあった城。
江戸時代の会津藩藩庁。会津若松城とも呼ばれる。

歴史・概略

南北朝時代の1384年、蘆名氏当主の蘆名直盛によって築城され、代々蘆名氏の城下町として発展した。

伊達政宗蘆名氏を滅ぼした後は政宗が居城としたが、豊臣秀吉によって取り上げられている。その後城主は蒲生氏、上杉氏、加藤氏、保科氏など次々と入った。蒲生氏の治世で黒川から若松へと名が改められ、徳川秀忠の子であった保科正之(ほしな・まさゆき)の入封以後は、江戸幕府倒幕まで代々松平家(後に保科氏から改姓)が治めた。

戊辰戦争では板垣退助率いる政府軍に対して徹底抗戦を行うも1か月後に開城、城主の松平容保(まつだいら・かたもり)は蟄居の身となった。

  • 築城:元中元年/至徳元年(1384年)
  • 廃城:明治7年(1874年)
  • 築城主:蘆名直盛
  • 構造:梯郭式・平山城
  • 主な城主:蘆名氏・伊達政宗・蒲生氏・上杉景勝・加藤氏・保科氏(会津松平家)
  • 日本100名城
]]>
https://rekishidou.com/tsurugajo/feed/ 0
白河小峰城 https://rekishidou.com/shirakawakominejo/ https://rekishidou.com/shirakawakominejo/#respond Thu, 14 Apr 2016 00:15:08 +0000 http://rekishidou.com/?p=3107 福島県白河市にあった室町時代から江戸時代にかけての城。江戸時代の白河藩藩庁。
戊辰戦争の局面のひとつ「白河口の戦い」の舞台。

歴史・概略

南北朝時代、白河を領する結城親朝(ゆうき・ちかとも)によって築城されたとされる。その後蒲生氏上杉氏丹羽氏榊原氏本多氏松平氏阿部氏などが城主を務めている。

大政奉還後の転換期に発生した戊辰戦争では会津藩家老・西郷頼母(さいごうたのも)を総督に白河小峰城を守る奥羽越列藩同盟側と、伊地知正治(いぢちまさはる)率いる新政府軍側との間で激しい戦いとなり、多くの死傷者を出した。

  • 築城:興国元年/暦応3年(1340年)
  • 廃城:明治4年(1871年)
  • 築城主:結城親朝
  • 構造:梯郭式・平山城
  • 主な城主: 白河結城氏・蒲生氏・丹羽氏・越前松平氏・久松松平氏・阿部氏
  • 日本100名城
]]>
https://rekishidou.com/shirakawakominejo/feed/ 0
飯盛山(白虎隊自決の地) https://rekishidou.com/iimoriyama/ https://rekishidou.com/iimoriyama/#respond Sun, 14 Feb 2016 02:05:35 +0000 http://rekishidou.com/?p=1670 会津若松の東側にある山。戊辰戦争の際の白虎隊自刃の地として知られる。

歴史・概略

  • 戊辰戦争の勃発により、旧幕府軍の中核をなした会津藩は新政府軍から敵とみなされ、各地で攻撃を受けることとなった。
  • 16歳から17歳の武家の男子によって構成された白虎隊のうち、士中二番隊が戸ノ口原の戦いに投入されて奮戦、しかし物量に押されて敗走し、城下の東にある飯盛山へと逃れた。そこで隊員たちは鶴ヶ城付近で燃える屋敷を目にして、城が落城したものと思って自刃して果てた。一説には、敵に投降することを避けるため自刃したとも言われる。
    このうち1名は命を取り留めたものの、19名の隊員の命が失われた。

  • 鶴ヶ城

    会津藩の拠点・鶴ヶ城(福島県会津若松市)

  • 戊辰戦争・おもな戦闘
    <慶応4年/明治元年(1868年)>
     1月 3日(1月27日) 鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争勃発)
     3月 6日(3月29日) 甲州勝沼の戦い
     4月11日(5月 3日) 江戸開城
     4月19日(5月11日) 宇都宮城の戦い
    閏4月 3日(5月24日) 船橋の戦い
    閏4月20日(6月10日) 会津戦争
     5月 2日(6月21日) 北越戦争
     5月15日(7月 4日) 上野戦争
     7月11日(8月28日) 秋田戦争
    10月21日(12月4日) 箱館戦争
    <明治2年(1869年)>
     5月18日(6月27日) 函館戦争終結(戊辰戦争の終結)
]]>
https://rekishidou.com/iimoriyama/feed/ 0
二本松城 https://rekishidou.com/nihonmatsujo/ https://rekishidou.com/nihonmatsujo/#respond Sun, 21 Feb 2016 02:41:25 +0000 http://rekishidou.com/?p=1793 福島県二本松市にあった城。江戸時代の二本松藩藩庁。
霞ヶ城とも呼ばれる。

歴史・概略

室町時代中頃、二本松満泰が城を築いたのが始まり。その後城主は度々代わっていき、寛永20年(1643年)丹羽長秀の孫である光重が入城して以降、丹羽氏の居城となった。

戊辰戦争のひとつ「二本松の戦い」においては、二本松藩は旧幕府側について、新政府軍によって攻撃され落城、多くの犠牲者を出した。中でも、後に「二本松少年隊」と命名された12歳から17歳の少年兵が動員され、若者の命が失われたことは悲劇として伝わっている。

  • 築城:室町時代中期
  • 廃城:明治5年(1872年)
  • 築城主:二本松満泰
  • 構造:梯郭式・平山城
  • 主な城主:二本松氏・伊達氏・蒲生氏・上杉氏・加藤氏・丹羽氏
  • 日本100名城
  • 室町時代中頃、畠山氏の一族・二本松満泰により築城。
  • 天正14年(1586年)、伊達政宗の配下となる。
  • 天正19年(1591年)、伊達氏への減封処分により蒲生氏郷に与えられる。
  • 慶長3年(1598年)、蒲生氏が転封され上杉景勝に与えられる。
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いにより上杉氏が減封、蒲生領となる。
  • 寛永4年(1627年)、加藤嘉明が会津に入り娘婿に当たる松下重綱が二本松城に入る。
  • 寛永5年(1628年)、加藤嘉明の3男・明利が二本松城に入る。
  • 寛永20年(1643年)、丹羽光重が二本松城に入る。
  • 慶応4年(1868年)、戊辰戦争。奥羽越列藩同盟として新政府軍と交戦。
]]>
https://rekishidou.com/nihonmatsujo/feed/ 0
戸ノ口原古戦場跡(白虎隊奮戦の地) https://rekishidou.com/tonokuchiharakosenjo/ https://rekishidou.com/tonokuchiharakosenjo/#respond Sun, 14 Feb 2016 05:04:13 +0000 http://rekishidou.com/?p=1690 戊辰戦争の中の一局面である会津戦争において行われた戦闘地のひとつ。

歴史・概略

  • 大政奉還による主導権争いが活発化する中、旧幕府軍と新政府軍の衝突によって戊辰戦争が勃発する。
    新政府軍は会津の境界である母成峠を突破、会津藩は城下への侵入を防ぐため、進軍路にあたる十六橋を落とそうと計画した。しかし、これに手間取って失敗し戸ノ口へと退却白虎隊はこれに援軍として加わって戦ったが、孤立無援となって後退し飯盛山で自決した。

  • 飯盛山

    白虎隊が自決した飯盛山(福島県会津若松市)

  • 戊辰戦争・おもな戦闘
    <慶応4年/明治元年(1868年)>
     1月 3日(1月27日) 鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争勃発)
     3月 6日(3月29日) 甲州勝沼の戦い
     4月11日(5月 3日) 江戸開城
     4月19日(5月11日) 宇都宮城の戦い
    閏4月 3日(5月24日) 船橋の戦い
    閏4月20日(6月10日) 会津戦争
     5月 2日(6月21日) 北越戦争
     5月15日(7月 4日) 上野戦争
     7月11日(8月28日) 秋田戦争
    10月21日(12月4日) 箱館戦争
    <明治2年(1869年)>
     5月18日(6月27日) 函館戦争終結(戊辰戦争の終結)

見どころ・おすすめ

  • このすぐ東側には会津藩の防衛ラインのひとつである十六橋、西側には白虎隊最期の地となった飯盛山がある。

]]>
https://rekishidou.com/tonokuchiharakosenjo/feed/ 0
旧滝沢本陣 https://rekishidou.com/kyutakizawahonjin/ https://rekishidou.com/kyutakizawahonjin/#respond Mon, 15 Feb 2016 00:51:18 +0000 http://rekishidou.com/?p=1684 滝沢本陣(横山家住宅)はかつて会津藩の本陣とされていた場所で、参勤交代や領内視察などの際に藩主の休息所として使用された。

歴史・概略

]]>
https://rekishidou.com/kyutakizawahonjin/feed/ 0
十六橋(会津戦争・戊辰戦争) https://rekishidou.com/16kyo/ https://rekishidou.com/16kyo/#respond Sun, 21 Feb 2016 00:38:37 +0000 http://rekishidou.com/?p=1791 福島県会津若松市と猪苗代町の間を通る日橋川にかかる橋。会津戦争戊辰戦争)における「十六橋の戦い」の舞台である。

歴史・概略

  • その昔、弘法大師(こうぼうだいし)が16の塚を築き橋を架けたといわれることからこの名がついた。
  • 鳥羽伏見の戦い」によって始まった戊辰戦争は、次第に東北へと舞台を移し、新政府軍は旧幕府勢力の主敵と見做していた会津に侵攻を開始する。
    慶応4年8月21日(1868年10月6日)、会津藩境の母成峠において新政府軍と戦闘が行われ会津藩は敗走(母成峠の戦い)、新政府軍は会津城下へと迫った。会津藩はこの戦いの翌22日、城下への進軍を阻止すべく日橋川にかかる十六橋を落とそうとしていた。しかし、新政府軍の動きが早かったため橋の破壊前に新政府軍が到着。戦闘となったが兵力差を前に会津藩は退却、すぐに新政府軍に橋を突破されてしまった。

見どころ・おすすめ

]]>
https://rekishidou.com/16kyo/feed/ 0
西軍砲陣跡(会津戦争) https://rekishidou.com/seigunhojin/ https://rekishidou.com/seigunhojin/#respond Mon, 15 Feb 2016 04:09:36 +0000 http://rekishidou.com/?p=1693 戊辰戦争会津戦争)の際、新政府軍が大砲を置き会津藩の本拠地である鶴ヶ城(会津若松城)に向かって砲撃を行った場所。

歴史・概略

  • 慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦い」によって旧幕府軍と新政府軍の間に戊辰戦争の戦端が開かれ、新政府軍は立ちはだかる敵を次々と撃破しながら東へと進軍、ついに会津へと入った。これを迎える会津藩は城門を閉じ籠城する戦略を取ったが、新政府軍は鶴ヶ城を見下ろす小田山に砲塁を築いて城を攻撃、多大な被害が出た。
  • 会津藩とともに反新政府軍であった奥羽越列藩同盟の諸藩が次々と降伏する中、城は破壊され負傷者が増えるばかりの状況に藩主松平容保(まつだいら・かたもり)はついに降伏を決断した。
    明治元年9月22日(1868年11月6日)、鶴ヶ城北側の路上で降伏式が行われ、東北における戊辰戦争は終わった。

見どころ・おすすめ

  • 現在も鶴ヶ城天守がよく見える。町全体の景色は違うだろうが、城周辺の景色はおそらく当時とさほど違いはないものと思われる。
  • 鶴ヶ城はもちろん、城下にはたくさんの史跡が点在してるのでまとめて回るといい。

]]>
https://rekishidou.com/seigunhojin/feed/ 0
中野竹子殉節地(会津戦争) https://rekishidou.com/nakanotakeko/ https://rekishidou.com/nakanotakeko/#respond Tue, 16 Feb 2016 08:55:53 +0000 http://rekishidou.com/?p=1687 幕末の会津藩の女性・中野竹子が戦死した場所。会津戦争戊辰戦争)において会津に侵攻してきた新政府軍を相手に一歩も引かずに薙刀を振るい戦ったと言われる。

歴史・概略

  • 中野竹子(なかの・たけこ)は薙刀を得意としており、新政府軍が会津城下に侵入してくると妹の優子(まさこ)とともに婦女隊を結成し、戦いに参加することを願い出た。しかし女子であることを理由に断られ、それならば自害すると言って無理やり従軍を認めさせたという。
  • 婦女隊は決死の覚悟で戦い竹子は銃弾を受けて戦死、妹の優子は敵に首級を奪われぬよう介錯し首を回収したという。この時の竹子の年齢については諸説あるが20歳ぐらいだったと言われている。

見どころ・おすすめ

]]>
https://rekishidou.com/nakanotakeko/feed/ 0
会津藩家老 西郷頼母邸跡 https://rekishidou.com/saigotei/ https://rekishidou.com/saigotei/#respond Thu, 17 Oct 2019 11:37:21 +0000 https://rekishidou.com/?p=9883 江戸時代末期の会津藩家老・西郷頼母(さいごうたのも)の屋敷跡。

歴史・概略

  • 西郷家は代々会津藩家老を務める家柄で、頼母が家督を継いだ後、藩主の松平容保(まつだいら・かたもり)に家老として仕えた。特に容保が京都守護職就任の際には、強硬に反対したといわれる。
  • 戊辰戦争が勃発すると、奥羽越列藩同盟のひとりとして頼母は東北の玄関口白河城において新政府軍と激しい戦闘を繰り広げた。だが、最終的には新政府軍に突破され、その後も次々と防衛ラインが破られていった。
  • 慶応4年(1868年)8月、新政府軍がいよいよ会津若松城城下へと迫り、会津藩士たちは城に集まって籠城策を取った。頼母を城へと送り出し屋敷に残された妻は、もしこの先新政府軍に捕まり恥辱を受けることになれば家名の恥になるとして、一族の幼い子や女子合わせて21名で自刃して果てた。このことは会津戦争における悲劇のひとつとして今も語られている。
]]>
https://rekishidou.com/saigotei/feed/ 0