尊良親王 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Mon, 20 Mar 2023 03:26:14 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 尊良親王 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 竹之下古戦場(延元の乱) https://rekishidou.com/takenoshita/ https://rekishidou.com/takenoshita/#respond Thu, 25 Jan 2018 02:26:09 +0000 http://rekishidou.com/?p=5596 鎌倉時代から室町時代へと至る転換期、後醍醐天皇側の新田義貞と天皇に反発する足利尊氏との間で起こった「箱根・竹ノ下の戦い」が行われた場所。

歴史・概略

  • 鎌倉幕府を倒し、新たな政権となる「建武の新政」をスタートさせた後醍醐天皇であったが、その政権運営は武士たちの反発を招くものであった。その結果、各地で北条勢力が蜂起し、鎌倉を占拠するに至った(中先代の乱)。
  • 足利尊氏(あしかが・たかうじ)はこの乱を鎮めるため天皇の勅を得ないまま鎌倉に向け出陣、北条勢力を一掃し乱を鎮圧した。しかし、乱の鎮圧後も尊氏は鎌倉を動かず、尊氏の自立を恐れた天皇新田義貞(にった・よしさだ)に対し尊氏追討の宣旨を下した。
    このことによって、天皇尊氏の関係は手切れとなり、天皇足利氏の戦い延元の乱(えんげんのらん)」が勃発することとなった。ほかに「建武の乱(けんむのらん)」とも呼ばれる。
  • 天皇から尊氏追討の命令が下った状況に、尊氏は寺に入って髷を落とし、天皇に逆らう意思がないことを示した。しかし一方では、東海道を下る新田軍に対し尊氏の弟・足利直義(あしかが・ただよし)が迎撃に出たが、矢作川や手越河原などで敗走、追討軍は箱根や竹之下に進み鎌倉のすぐ西にまで迫った。
  • 建武2年12月11日(1336年1月24日)、各地で味方が敗れ新田軍が鎌倉に迫ってきた状況に尊氏はついに出陣を決断、竹之下に陣を張っていた義貞の弟・脇屋義助(わきや・よしすけ)を奇襲し大勝した。箱根では直義軍義貞に敗れたが、尊氏の出陣により足利軍への寝返りが続出するなど新田軍は総崩れとなり、義貞は敗走した。
    このあと足利軍は勝利の勢いに乗り、建武政権に反感を抱く武将たちを味方につけながら一気に都に攻め上った。
  • 戦いは各地で半年ほど続いたが、最終的に尊氏が京都を制圧、室町幕府を開き尊氏は初代将軍に就任した。
  • 「延元の乱(建武の乱)」におけるおもな戦い
    矢作川の戦い/手越河原の戦い/箱根・竹ノ下の戦い/第一次京都合戦/豊島河原の戦い/多々良浜の戦い/湊川の戦い/第二次京都合戦/近江の戦い
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金ヶ崎城址 https://rekishidou.com/kanagasakijo/ https://rekishidou.com/kanagasakijo/#respond Wed, 13 Apr 2016 00:27:27 +0000 http://rekishidou.com/?p=2756 福井県敦賀市にあった城で、南北朝の戦乱、あるいは織田信長の「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる撤退戦の舞台として知られる。

歴史・概略

  • 読み:かながさきじょう・かねがさきじょう
  • 築城:平安時代末期
  • 廃城:
  • 築城主:平通盛
  • 構造:山城
  • 主な城主:気比氏・甲斐氏・朝倉氏
  • 平安時代末期、治承・寿永の乱(源平合戦)」において北陸の巨大勢力となった木曾義仲に対するため、平通盛(たいら・みちもり)が築いたのが始まりとされる。
  • 南北朝の時代には「湊川の戦い」に敗れた南朝方の新田義貞(にった・よしさだ)らが、後醍醐天皇の皇子らを伴って入城した。しかし北朝方の斯波高経(しば・たかつね)高師泰(こう・もろやす)らに攻められ落城、尊良親王(たかよししんのう)新田義貞の嫡男・新田義顕(にった・よしあき)らは城に火を放って自害、恒良親王(つねよししんのう)は捕縛された。

  • 花山院邸跡

    恒良親王が幽閉された花山院邸跡(京都府京都市)

  • 戦国時代、織田信長は対立していた越前朝倉氏の領国へと侵攻、金ヶ崎城を攻め落とした。しかし義理の弟である浅井長政の裏切りによって、朝倉軍と挟み撃ちにされる危機に陥った。信長はすぐさま金ヶ崎城をあとにし、わずかの供だけで朽木谷を越えなんとか京都への脱出に成功した。
    このとき木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が殿軍に名乗りを上げ、徳川家康とともに殿軍を引き受けたとされる。ただ、実際には殿軍の主力は明智光秀の軍であり、秀吉の天下となった際に秀吉の手柄に書き換えられたともいわれ、家康についても真偽は定かでない。
    この「金ヶ崎の戦い」における撤退戦は「金ヶ崎の退き口(のきぐち)」、または「金ヶ崎崩れ」とも呼ばれ、信長の大きな危機のひとつに数えられる。

  • 小谷城

    浅井長政の本拠・小谷城(滋賀県長浜市)

見どころ・おすすめ

  • 月見御殿-金ヶ崎城の最高所。本丸跡。敦賀湾の眺めがいい。
  • 木戸跡-南北朝の戦いで激戦があったとみられる場所。
  • 金崎宮-北朝軍に責められ自害・捕縛された恒良親王と尊良親王を祭神とする神社。
  • 尊良親王陵墓見込地-北朝軍に責められ自害した後醍醐天皇の皇子・尊良親王最期の地とされる場所。
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尊良親王墓 https://rekishidou.com/takayoshishinnohaka/ https://rekishidou.com/takayoshishinnohaka/#respond Tue, 31 Mar 2020 04:54:47 +0000 https://rekishidou.com/?p=10288 京都の観光地として名高い永観堂(禅林寺)近くにある鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての皇族・尊良親王の墓。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • ここだけを目的に行く人はまずいないと思うので南禅寺や永観堂など東山散策のついでにでも行かれたらいかがかと。

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手越河原古戦場跡(延元の乱) https://rekishidou.com/tegoshigawara/ https://rekishidou.com/tegoshigawara/#respond Tue, 08 Jan 2019 08:11:25 +0000 http://rekishidou.com/?p=6023 建武政権を離脱した足利軍と、後醍醐天皇の命を受けた新田軍の合戦の地。「延元の乱」で行われた合戦のひとつ。

歴史・概略

  • 「延元の乱(えんげんのらん)」とは、足利尊氏(あしかが・たかうじ)後醍醐天皇を中心とした政権「建武の新政(けんむのしんせい)」から離脱し、尊氏が幕府を樹立するまでの戦いの総称。ほかに「建武の乱(けんむのらん)」ともいう。
  • 建武2年(1335年)、後醍醐天皇は武家政権の動きを見せる足利尊氏に対し追討を決意、新田義貞(にった・よしさだ)率いる天皇軍と、尊氏の弟・足利直義(あしかが・ただよし)率いる足利軍が三河国矢作川にて激突した。
    この戦闘で足利軍は敗北し退却、さらに東へと進んだ遠江国手越河原(てごしがわら)で再び激突することとなった。
  • 戦闘は正午から午後8時頃まで17回に渡ったとされ、足利軍の敗北に終わった。このとき尊氏と協力関係にあった近江の佐々木道誉が新田軍に下った(ただし、この後の「箱根・竹ノ下の戦い」で再び足利軍に下っている)。
  • 「延元の乱」のおもな出来事
    建武2年11月 矢作川の戦い/12月 鷺坂の戦い/12月 手越河原の戦い/12月 箱根・竹ノ下の戦い/建武3年1月 京都攻防戦/2月 豊島河原の戦い/3月 多々良浜の戦い/5月 湊川の戦い/6月 京都攻防戦
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