奈良県吉野郡吉野町にある金峯山修験本宗(修験道)の本山。京都を脱出した後醍醐天皇が南朝を開いた場所として知られる。
歴史・概略
- 金峯山寺(きんぷせんじ)は役小角(えんのおづぬ)によって開かれた修験道の本山である。周辺の山や麓の多くの子院からなり、今は独立しているが山上ヶ岳にある大峯山寺もそのひとつだった。
今は桜の名所として広く知られている。 - 飛鳥時代(7世紀後半)、役小角により開基されたと伝わる。
- 元弘3年(1333年)、鎌倉幕府の倒幕運動である「元弘の乱」が起こった際には、後醍醐天皇の皇子である護良親王が吉野で挙兵、幕府軍と戦った。
- 延元元年/建武3年(1336年)、足利尊氏によって幽閉されていた後醍醐天皇が京都を脱出、穴生(後の賀名生)を経て、金峯山寺の僧坊である吉水院(きっすいいん・現吉水神社)に入った。後に塔頭のひとつ実城寺に遷って行宮とし、寺名を「金輪王寺」に改めた。
- 延元4年/暦応2年(1339年)、後醍醐天皇が自身の皇子である後村上天皇に譲位、翌日崩御した。
- 正平3年/貞和4年(1348年)、「四條畷の戦い」により南朝の有力武将・楠木正行(くすのき・まさつら)を下した高師直(こう・もろなお)が吉野を襲撃、行宮と金峯山寺を焼き討ちした。これにより後村上天皇は吉野を脱出、後に賀名生を行宮とした。
- 正平23年/応安元年(1368年)、後村上天皇が住吉行宮において崩御。後村上天皇の皇子である長慶天皇(ちょうけいてんのう)が即位した。
- 正平23年/応安元年(1368年)、南朝の有力武将・楠木正儀(くすのき・まさのり)が北朝に下ったため、一旦吉野へと後退した。
- 正平24年/応安2年(1369年)、後村上天皇時代に行宮としていた金剛寺を再び行宮とした。
- 文中2年/応安6年(1373年)、北朝からの攻撃を受け、再び行宮を吉野に遷した。
- 天授5年/康暦元年(1379年)以前、栄山寺を行宮とした。
- 慶長19年(1614年)、徳川家康の側近であった天海が学頭となり、天台宗傘下に置かれた。
- 明治7年(1874年)、廃仏毀釈の流れを受け廃寺。
- 明治19年(1886年)、復興。
【南朝の行宮の変遷】
年号 | 行在所 | 天皇 |
---|---|---|
延元元年/建武3年(1336年) | 吉野(奈良) | 後醍醐天皇 後村上天皇 |
正平3年/貞和4年(1348年) | 賀名生(奈良) | 後村上天皇 |
正平6年/観応2年(1351年) | 正平一統 | |
正平7年/観応3年(1352年) | 住吉(大坂) | 後村上天皇 |
正平7年/観応3年(1352年) | 賀名生(奈良) | 後村上天皇 |
正平9年/文和3年(1354年) | 金剛寺(大坂) | 後村上天皇 |
正平15年/延文5年(1360年) | 住吉(大坂) | 後村上天皇 長慶天皇 |
正平23年/応安元年(1368年) | 吉野(奈良) | 長慶天皇 |
正平24年/応安2年(1369年) | 金剛寺(大坂) | 長慶天皇 |
文中2年/応安6年(1373年) | 吉野(奈良) | 長慶天皇 |
天授5年/康暦元年(1379年)以前 | 賀名生/栄山寺(奈良) | 長慶天皇 後亀山天皇 |
元中9年/明徳3年(1392年) | 南北朝合一 |
※資料の記述に揺れがあるので、あくまで参考程度に
※賀名生と栄山寺は同時期に行宮とされているので判断つかず
見どころ・おすすめ
- 蔵王堂(本堂)-国宝。高師直の攻撃により焼失。現在の建物は天正20年(1592年)頃の再建。
- 仁王門-国宝。南北朝時代頃の建物とされる。
- 吉野朝宮址碑-後醍醐天皇が南朝の拠点とした実城寺の跡。現在は南朝妙法殿が建てられ、南朝の天皇とそれに尽くした人たちを祀っている。
- 二天門跡村上義光公忠死之所碑-挙兵した護良親王が幕府軍から逃げる際、身代わりとなって自刃した村上義光(むらかみ・よしてる)を称える碑。
史跡情報
地図 |
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【場所】
奈良県吉野郡吉野町吉野山 |
主な施設 |
蔵王堂(本堂)・仁王門・吉野朝宮址碑・二天門跡村上義光公忠死之所碑 |
利用時間 |
8:30 ~ 16:30 |
定休日 |
無休 |
料金 |
【蔵王堂(本堂)】 大人500円・中高生400円・小学生300円 |
交通 |
【電車】 ・吉野ロープウェイ「吉野山」駅から約0.5Km 【マイカー】 ・京奈和自動車道「五條IC」から約20Km ・駐車場あり |