南北朝の動乱が始まるきっかけとなった「延元の乱」において戦死した千種忠顕の碑。
歴史・概略
- 千種忠顕(ちぐさ・ただあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての公卿で、後醍醐天皇の近臣として仕えた。後醍醐天皇が鎌倉幕府によって隠岐島へ配流された際にも同行し、その後の幕府倒幕に貢献している。
- 結城親光(ゆうき・ちかみつ)、楠木正成(くすのき・まさしげ)、名和長年(なわ・ながとし)らとともに「建武の新政」において、後醍醐天皇に忠義を尽くした「三木一草(さんぼくいっそう)」と呼ばれるひとりに数えられる。
- 建武2年11月(1336年1月)、足利尊氏(あしかが・たかうじ)が建武政権を離脱したことにより「延元の乱(建武の乱)」が勃発、足利軍に都を奪われた。後醍醐天皇方はすぐに足利軍を都から駆逐することに成功したが、足利軍は九州で再起し再び大軍で上洛した。
「湊川の戦い」において楠木正成、新田義貞が敗北したとの知らせに後醍醐天皇は比叡山に退避した。延元元年/建武3年6月7日(1336年7月15日)、尊氏の弟・足利直義(あしかが・ただよし)率いる足利軍が比叡山に迫り、忠顕は比叡山麓西坂本の雲母坂(きららざか)において直義軍と戦って戦死した。
見どころ・おすすめ
- この少し南には忠顕と直義が戦った水飲対陣之跡碑が立っている。
史跡情報
地図 |
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【場所】 京都府京都市左京区修学院丸子青良ケ谷 【付近の史跡】
[ 南西・約0.9km ] 水飲対陣之跡(延元の乱)
[ 南西・約3km ] 将軍山城跡
[ 南西・約4km ] 中尾城跡
[ 南西・約4km ] 銀閣寺(足利義政東山殿)
[ 南・約5km ] 如意ヶ嶽城跡
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主な施設 |
石碑のみ |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・叡山ケーブル「ケーブル比叡」駅 |