大阪 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Tue, 22 Aug 2023 03:04:49 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 大阪 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 和田惟政供養塔(東奈良史跡公園) https://rekishidou.com/koremasakuyou/ Mon, 21 Aug 2023 23:19:12 +0000 https://rekishidou.com/?p=16681 白井河原の戦いにおいて命を落とした室町時代末期の戦国武将・和田惟政の供養塔。
および弥生時代の集落跡。

歴史・概略

  • 【和田惟政(わだ・これまさ)】享禄3年-元亀2年(1530年-1571年)
    元は近江の豪族で後の15代将軍・足利義昭の近江逃亡を手助けした。後の織田信長による上洛の際にも貢献し芥川山城高槻城などを与えられ、摂津守護のひとりとなった。
  • 【白井河原の戦い(しらいがわらのたたかい)】
    交戦勢力:荒木村重中川清秀 VS 茨木重朝和田惟政
    決戦日:元亀2年8月28日(1571年9月17日)
    場所:大阪府茨木市茨木川周辺
    状況:村重らが三好勢力と結び反織田に寝返り、織田方の和田軍と対峙した。兵力に劣る和田軍は時間稼ぎを行うも荒木・中川軍はこれを好機とみて戦端を開き、惟政・重朝ともども討ち取られた。
  • 【東奈良遺跡(ひがしならいせき)】昭和46年に発見された弥生時代の集落跡。その後の調査により集落は周囲1キロ以上にも及ぶ大規模なもので、いくつもの環濠のほか住居群や墓群、工房などが確認されている。また、遺跡からは銅鐸の鋳型が複数出土しており、銅鐸生産地や流通を知る上での貴重な発見となった。
  • 茨木市立文化財資料館

    銅鐸の鋳型(茨木市立文化財資料館)

見どころ・おすすめ

  • 白井河原の戦いが起こったのは、この場所から4Kmほど北に行った茨木川の周辺。いくつか史跡があるのでまとめてまわるのがおすすめ。
  • 以前は白井河原の戦いが起こった戦場近くの茨木市五日市付近に供養塔が置かれていたが、現在はこちらの公園に移動している。
  • 公園内には古墳時代に作られた代表的なハニワや出土した銅鐸の鋳型、江戸時代の土蔵などが展示されている。
  • 併設の茨木市立文化財資料館では東奈良遺跡など茨木の歴史展示がされている。無料の割に展示がしっかりとしているのでぜひ立ち寄ってみて。

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大坂冬の陣 佐竹義宣本陣跡(若宮八幡大神宮) https://rekishidou.com/satakehonjin/ https://rekishidou.com/satakehonjin/#respond Tue, 04 Apr 2023 11:40:22 +0000 http://rekishidou.com/?p=2732 戦国最後の戦いとなった「大坂の陣」において、佐竹義宣が本陣とした場所。

歴史・概略

  • 大坂の陣は天下人となった徳川家康とその主筋である豊臣秀頼との間で慶長19年(1614年)11月 から慶長20年(1615年)5月にかけて行われた戦い。戦闘は大きく2回に分けられ、前半を「冬の陣」、後半を「夏の陣」と呼ぶ。
  • 家康は全国の大名に出陣を要請、出羽国久保田藩(秋田藩)藩主佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)も大阪に参陣した。豊臣軍は大阪城周辺にいくつかの砦を構築しており、義宣は大阪城北東約2Kmの場所にある今福砦の攻略を命じられた。
  • 慶長19年(1614年)11月26日、夜明けとともに戦いの火ぶたが切られ、一旦は佐竹軍が砦の制圧に成功。しかし木村重成(きむら・しげなり)後藤基次(ごとう・もとつぐ)など豊臣軍の援軍到着により佐竹軍は後退、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)らの助けを借りてようやく豊臣軍を追い返した。一連の戦いは今福の戦いと呼ばれ、佐竹軍は多くの死傷者を出したという。
  • この戦いの際、義宣が本陣をおいたのが若宮八幡大神宮で、戦勝を祈願したと伝わっている。また戦後には当社に矢を奉納したが、残念ながら明治に発生した洪水によって流失してしまったという。
【冬の陣 おもな戦い】

  • 木津川口の戦い
  • 今福の戦い
  • 鴫野の戦い
  • 博労淵の戦い
  • 野田・福島の戦い
  • 真田丸の戦い

【夏の陣 おもな戦い】

見どころ・おすすめ

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大坂冬の陣 今福・蒲生の戦い跡 https://rekishidou.com/imafukugamo/ https://rekishidou.com/imafukugamo/#respond Mon, 03 Apr 2023 06:19:39 +0000 http://rekishidou.com/?p=2730 戦国の覇者となった豊臣家の最終決戦「大坂の陣」における激戦地のひとつ。

歴史・概略

  • 碑文「大坂冬の陣 古戦場 今福 蒲生の戦い跡」「後藤基次 木村重成 奮戦の地跡」
  • 後藤基次(ごとう・もとつぐ)は戦国時代末期の武将で通称は後藤又兵衛。もともと筑前国福岡藩黒田家の家臣だったが、のちに出奔。「大坂の陣」の際に大阪城に入った浪人のひとりで大坂城五人衆に数えられる。
  • 木村重成(きむら・しげなり)は戦国時代末期の武将で豊臣家の家臣。「大坂の陣」において活躍。
  • 江戸に幕府を開き豊臣秀吉亡きあとの天下を掌握した徳川家康は、最後の大仕事として豊臣家との決着を決断。家康は全国諸大名に発令し、いよいよ「大坂の陣」が始まった。一方の豊臣秀頼は大阪城の北東約2Km、旧大和川をはさんで北岸の今福(いまふく)村と南岸の鴫野(しぎの)村に砦を設置し徳川軍の来襲に備えた。
  • 徳川軍は今福村に付け城を構築するため、まずは付近にあった今福砦に出羽久保田藩佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)を、鴫野砦に出羽米沢藩上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)をそれぞれ派遣し攻略を命じた。
  • 慶長19年(1614年)11月26日未明、堀と4重の柵に守られた今福砦を佐竹軍が攻撃、今福の戦いが始まった。時を同じくして鴫野砦でも戦いが始まり、こちらは鴫野の戦いと呼ぶ。
  • 佐竹軍は砦をほぼ制圧したものの、大阪城より木村重成後藤基次らの援軍が到着すると形勢は逆転、佐竹軍は多くの死傷者を出した。佐竹軍は鴫野砦で戦っていた上杉景勝に援軍を要請、豊臣軍は上杉軍や堀尾忠晴榊原康勝らの攻撃を受けようやく撤退した。
【冬の陣 おもな戦い】

  • 木津川口の戦い
  • 今福の戦い
  • 鴫野の戦い
  • 博労淵の戦い
  • 野田・福島の戦い
  • 真田丸の戦い

【夏の陣 おもな戦い】

見どころ・おすすめ

  • 西に数百メートルの場所にこの戦いで本陣とした佐竹義宣本陣跡碑が立てられている。
  • また、この場所から少し南に行ったところに鴫野古戦場跡および上杉景勝本陣跡がある。

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大阪冬の陣 上杉景勝本陣之地(八劔神社) https://rekishidou.com/uesugijin/ https://rekishidou.com/uesugijin/#respond Sun, 02 Apr 2023 06:10:39 +0000 http://rekishidou.com/?p=7572 戦国最後の大決戦となった「大坂の陣」において、上杉景勝が本陣とした場所。

歴史・概略

  • 豊臣秀吉の死後、江戸に幕府を開き天下人となった徳川家康はかつての主家・豊臣家に対し宣戦を布告、「大坂の陣」が始まった。戦いは慶長19年(1614年)11月から12月慶長20年(1615年)4月から5月まで大きく2回に渡り行われ、前半を「大坂冬の陣」後半を「大坂夏の陣」という。双方合わせて冬は約36万、夏は約15万もの兵力が全国から動員された。
  • 豊臣軍は大阪城の北東約2Kmの旧大和川北側にある今福(いまふく)村と南側の鴫野(しぎの)村に砦を構築、防戦の拠点とした。対して徳川軍は大阪城への足掛かりとして今福村に付け城を置くことを計画、付近にあった2か所の砦攻略を開始した。今福村攻略には出羽久保田藩佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)が、鴫野村には出羽米沢藩上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)がそれぞれ命じられた。
  • 慶長19年(1614年)11月26日早朝、今福村と鴫野村でほぼ同時に戦いが始まり、上杉軍は2000の兵が守る砦を攻め落とした。その後大野治長ら豊臣軍の援軍が到着すると一時的に混戦状態となったものの、砦を死守し豊臣軍は撤退した。この鴫野村で行われた一連の戦いを「鴫野の戦い(しぎののたたかい)」と呼ぶ。また、今福村での戦いは「今福の戦い」と呼ばれる。
  • 「鴫野の戦い」の際、上杉景勝が本陣を置いたのが八劔神社(やつるぎじんじゃ)境内といわれており、境内には本陣跡を示す石碑が立てられている。
【冬の陣 おもな戦い】

  • 木津川口の戦い
  • 今福の戦い
  • 鴫野の戦い
  • 博労淵の戦い
  • 野田・福島の戦い
  • 真田丸の戦い

【夏の陣 おもな戦い】

見どころ・おすすめ

  • 八劔神社を西に出たところにある城東小学校脇に鴫野古戦場碑が立てられている。

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大坂冬の陣 鴫野古戦場跡 https://rekishidou.com/shiginokosenjo/ https://rekishidou.com/shiginokosenjo/#respond Sat, 01 Apr 2023 10:49:51 +0000 http://rekishidou.com/?p=2716 江戸時代初期、豊臣家と徳川家の間で起こった「大坂の陣」における激戦地のひとつ。

歴史・概略

  • 豊臣秀吉の死後、天下を掌握した徳川家康は政権維持最大の不安材料となっていた豊臣家の排除を決意。方広寺梵鐘事件をきっかけにして家康は諸国大名に豊臣討伐を命じ、ついに大坂冬の陣が勃発した。このときの徳川軍の動員兵力は約20万。対する豊臣軍の兵力は約10万といわれる。
  • 豊臣軍は大阪城の北東約2Km、旧大和川を挟んで北側と南側にある今福(いまふく)村と鴫野(しぎの)村それぞれ砦を築いて守りを固めた。対する家康は今福に付け城を構築するため、今福の攻略を出羽久保田藩佐竹義宣に、鴫野の攻略を出羽米沢藩上杉景勝(後詰:堀尾忠晴丹羽長重榊原康勝)に命じた。
  • 鴫野の砦は3重の柵で囲まれ、兵力は約2000。慶長19年(1614年)11月26日早朝、上杉軍が砦を攻撃し守将の井上頼次は討死、砦は陥落した。その後大野治長率いる豊臣軍の援軍が到着すると形勢が逆転。乱戦状態となり上杉軍は一時押し返されるなどしたものの、上杉軍はなんとかこれを制し豊臣軍は撤退した(鴫野の戦い)。
【冬の陣 おもな戦い】

  • 木津川口の戦い
  • 今福の戦い
  • 鴫野の戦い
  • 博労淵の戦い
  • 野田・福島の戦い
  • 真田丸の戦い

【夏の陣 おもな戦い】

見どころ・おすすめ

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前期難波宮朝堂院南門跡 https://rekishidou.com/naniwanomiya-4/ Tue, 27 Dec 2022 08:40:36 +0000 https://rekishidou.com/?p=15065 いまの大阪城南側一帯に存在した飛鳥時代の古代宮殿跡。

歴史・概略

  • 現在の大阪城の南側、法円坂より奈良時代の遺物が出土し、その後の発掘調査で飛鳥時代奈良時代に営まれた古代都市・難波宮(なにわのみや)の跡であると確認された。大極殿や朝堂院、回廊など宮の中心部分については現在難波宮跡公園となっており、発掘された遺跡は地下に保存されている。
  • 飛鳥時代のものは、大化元年(645年)孝徳天皇によって遷都された難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)で、前期難波宮と呼ぶ。
  • 奈良時代のものは天平16年(744年)聖武天皇によって遷都された都。前期難波宮と同じ中心軸上に作られており、こちらは後期難波宮と呼ぶ。
  • 難波宮復元図

    前後期難波宮復元図(大阪歴史博物館)

  • 「前期難波宮朝堂院 南門跡(ぜんきなにわのみや ちょうどういん なんもんあと)」の案内板が立てられている場所は難波宮跡公園南側すぐ、前期難波宮の内裏や朝堂院の南側に設けられた南門があった場所にあたる。朝堂院は行政の中心的建物で東西対称に14棟(もしくは16棟)が整然と並べられていた。その朝堂院南側正面に設けられていたのが南門で、さらに100mほど南には朱雀門が確認されている。
  • 前期難波宮南門位置復元図

    前期難波宮南門位置復元図(案内板より)


    前期難波宮復元模型

    前期難波宮復元模型(大阪歴史博物館)

見どころ・おすすめ

  • 発掘された南門跡はすべて埋め戻されており、いま現在我々が直接目にできるものはない。
  • 難波宮跡公園では建物跡や回廊などが復元展示されており、前期難波宮西方官衙跡に建てられている大阪歴史博物館では難波宮について詳しい展示がされている。
大阪歴史博物館

大阪歴史博物館(大阪府大阪市)

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難波宮跡東辺 https://rekishidou.com/naniwanomiya-3/ Mon, 26 Dec 2022 11:41:33 +0000 https://rekishidou.com/?p=15088 現在の大阪市中心部にあった飛鳥時代の都・難波宮の跡地。蘇我氏滅亡後の政治改革「大化の改新」が行われた宮として知られる。

歴史・概略

  • 難波宮(なにわのみや)は現在の大阪城南側一帯に645年から793年頃にかけて存在した都。現在は中心部が史跡公園として保存されている。
  • 難波宮は日本書紀の記述では知られていたが、長らく所在が不明のまま「幻の都」とも呼ばれていた。しかし大正2年(1913年)奈良時代のものとみられる軒丸瓦(のきまるがわら)が発見され、昭和28年(1953年)には大極殿に使用されたものとみられる鴟尾(しび・屋根の上に置かれる飾り)の一部が発見された。
    さらに昭和29年(1954年)から始まった本格的な発掘によって柱跡や回廊跡など大規模な宮跡が確認、これによって難波宮の実在がようやく証明されることとなった。
  • 後期難波宮鴟尾復元模型

    後期難波宮鴟尾復元模型(大阪歴史博物館)

  • 確認されたのは2つの異なる次期のもので、古いものは飛鳥時代孝徳天皇がおいた難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)、新しいものは奈良時代聖武天皇がおいたものでそれぞれ前期難波宮、後期難波宮と呼ばれる。
  • 難波宮復元図

    難波宮復元図(大坂歴史博物館)

  • 遺跡からは大極殿や内裏、朝堂院など中心部の痕跡のほか、西側と東側に前期難波宮の回廊や建物跡などが見つかっている。「難波宮跡東辺」碑は中心部から東へ約400mの場所にあり、宮跡の東端にあたる。

見どころ・おすすめ

  • ここは石碑のみで特に見るべきものはないが、難波宮跡公園では大極殿や朝堂院、回廊などがタイルやレンガなどで復元されている。ほかにも東方遺跡西方官衙などの遺跡があるので一緒に廻るのがおすすめ。
  • また、西方官衙の上に建っている大阪歴史博物館では難波宮が詳しく展示されている。
大阪歴史博物館

大阪歴史博物館(大阪府大阪市)

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難波宮内裏東方遺跡 https://rekishidou.com/naniwanomiya-2/ Wed, 21 Dec 2022 01:24:33 +0000 https://rekishidou.com/?p=15085 大阪市中心部にあった古代宮城における役所跡。

歴史・概略

  • 昭和29年(1954年)より本格的な周辺の発掘調査が行われ、飛鳥時代奈良時代2つの時期の難波宮跡(なにわのみやあと)が発見された。飛鳥時代のものは前期難波宮、奈良時代のものは後期難波宮とそれぞれ呼ばれる。
  • その後、宮跡中心部から東に約200メートルのこの付近一帯からも前期難波宮のものとみられる柱跡、および回廊跡が発見され、高床式倉庫や望楼であったと推察されている。また、回廊が巡らされていることから、かなり重要な役所施設であったと考えられている。
  • 難波宮復元図

    難波宮復元図(大阪歴史博物館)・右の赤い部分が難波宮内裏東方遺跡


    難波宮内裏東方遺跡 遺構配置図

    難波宮内裏東方遺跡 遺構配置図(案内板より)

  • 前期難波宮は大化元年(645年)孝徳天皇によって遷都された都で、正式名称は難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)。その後朱鳥元年(686年)にかけて営まれた。
    有名な政治改革「大化の改新」が実施されたのもこの宮である。

見どころ・おすすめ

  • 案内板奥の駐車スペースに柱跡・回廊跡があり、発見された跡が分かりやすいよう地面にペンキで記されている。
  • 難波宮内裏東方遺跡柱跡

    難波宮内裏東方遺跡柱跡(アネックスパル法円坂横)

  • 周辺には宮跡が復元されている難波宮公園西方官衙跡(せいほうかんがあと)があり、西方官衙跡の上に建っている大阪歴史博物館では難波宮に関する展示がされているのでまとめて廻るのがおすすめ。
  • 大阪歴史博物館

    大阪歴史博物館(大阪府大阪市)

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法円坂遺跡・前期難波宮内裏西方官衙 https://rekishidou.com/hoenzakaiseki/ Wed, 14 Dec 2022 02:25:16 +0000 https://rekishidou.com/?p=15091 大阪市にある古墳時代および飛鳥時代の建物跡。

歴史・概略

  • 現在大阪歴史博物館とNHK大阪ホールが建っている場所(大阪城の南西、難波宮公園の北西)において古墳時代飛鳥時代の建物跡を発見。古墳時代のものは法円坂遺跡(ほうえんざかいせき)飛鳥時代のものは前期難波宮内裏西方官衙(ぜんきなにわのみやだいりせいほうかんが)とそれぞれ呼ばれる。
  • 法円坂遺跡からは5世紀前半頃(古墳時代中期)のものとみられる掘立柱跡がみつかっており、その特徴から高床式倉庫と推定されている。建物の大きさは1棟約10m×9m、南北2列、東西8列に整然と並んだ全16棟にも及ぶ建物群であった。付近にあったはずの難波津(なにわづ)と大陸とを行き来する貿易船の物資の中継地点として機能したとみられる。
  • 時代はちょうど大坂を拠点とした仁徳天皇の頃にあたり、場所の特定はされていないが難波高津宮(なにわたかつのみや)への物資もここから運ばれていたものと考えられる。
  • 前期難波宮内裏西方官衙(官衙は役所や官庁の同義語)はこの南東すぐの場所にある難波宮跡に付随した施設で、中でも前期難波宮と呼ばれる飛鳥時代の遺跡である。
    始まりは645年、「乙巳の変」のあと孝徳天皇によって遷都され40年ほど使われた。正確には難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)といい、奈良時代の遺跡と区別して前期難波宮と呼ぶ。
  • 遺跡からは南北に並ぶ倉庫や2つの大型建物、塀などの柱跡のほか、土器や木簡が見つかっている。
  • 前期難波宮内裏西方官衙復元模型

    前期難波宮内裏西方官衙復元模型(大阪歴史博物館)

見どころ・おすすめ

  • 建物跡や柱跡などがわかりやすくタイルで示されている。また、古墳時代の倉庫1棟が復元展示されている。
  • 大阪歴史博物館では遺構そのものが展示されており、学芸員の方が案内する遺跡見学ツアーも開催しているので参加してみるのも面白い。
大阪歴史博物館

大阪歴史博物館

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芥川城跡 https://rekishidou.com/akutagawajo-2/ https://rekishidou.com/akutagawajo-2/#respond Wed, 02 Oct 2019 00:30:17 +0000 http://rekishidou.com/?p=5830 大阪府高槻市にあった城。戦国最初の天下人・三好長慶が居城としていた芥川城(芥川山城)とは別の城である。

歴史・概略

  • いつ築城され、いつ廃城となったかは不明のままであるが、鎌倉時代に幕府の御家人となった芥川氏が築城したと考えられている。遺構もなく規模や縄張りなど全くの不明である。
    ただ、京都と中国方面を結ぶ西国街道が、この付近で何かをよけるように不自然に折れ曲がっていることから、この部分に城があったのではないかと推定されている。
  • 芥川の上流、この城の北側の三好山にも芥川城が築かれ、どちらも芥川城として記録されている場合があるため記録が混同しているらしい。そのため、現代では三好山に築かれた芥川城は便宜上、芥川山城と呼んで区別している。
  • 平時は芥川城を居館とし、戦闘時においては芥川山城を詰城としたとも考えられている。
  • 築城:鎌倉時代前期?
  • 廃城:不明
  • 築城主:芥川氏
  • 構造:平城
  • 主な城主:芥川氏・細川氏・三好氏
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