戦国の覇者となった豊臣家の最終決戦「大坂の陣」における激戦地のひとつ。
歴史・概略
- 碑文「大坂冬の陣 古戦場 今福 蒲生の戦い跡」「後藤基次 木村重成 奮戦の地跡」
- 後藤基次(ごとう・もとつぐ)は戦国時代末期の武将で通称は後藤又兵衛。もともと筑前国福岡藩黒田家の家臣だったが、のちに出奔。「大坂の陣」の際に大阪城に入った浪人のひとりで大坂城五人衆に数えられる。
- 木村重成(きむら・しげなり)は戦国時代末期の武将で豊臣家の家臣。「大坂の陣」において活躍。
- 江戸に幕府を開き豊臣秀吉亡きあとの天下を掌握した徳川家康は、最後の大仕事として豊臣家との決着を決断。家康は全国諸大名に発令し、いよいよ「大坂の陣」が始まった。一方の豊臣秀頼は大阪城の北東約2Km、旧大和川をはさんで北岸の今福(いまふく)村と南岸の鴫野(しぎの)村に砦を設置し徳川軍の来襲に備えた。
- 徳川軍は今福村に付け城を構築するため、まずは付近にあった今福砦に出羽久保田藩佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)を、鴫野砦に出羽米沢藩上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)をそれぞれ派遣し攻略を命じた。
- 慶長19年(1614年)11月26日未明、堀と4重の柵に守られた今福砦を佐竹軍が攻撃、今福の戦いが始まった。時を同じくして鴫野砦でも戦いが始まり、こちらは鴫野の戦いと呼ぶ。
- 佐竹軍は砦をほぼ制圧したものの、大阪城より木村重成・後藤基次らの援軍が到着すると形勢は逆転、佐竹軍は多くの死傷者を出した。佐竹軍は鴫野砦で戦っていた上杉景勝に援軍を要請、豊臣軍は上杉軍や堀尾忠晴、榊原康勝らの攻撃を受けようやく撤退した。
【冬の陣 おもな戦い】
- 木津川口の戦い
- 今福の戦い
- 鴫野の戦い
- 博労淵の戦い
- 野田・福島の戦い
- 真田丸の戦い
【夏の陣 おもな戦い】
見どころ・おすすめ
史跡情報
地図 |
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【場所】 大阪府大阪市城東区今福西 【付近の史跡】 [ 西・約0.4km ] 大坂冬の陣 佐竹義宣本陣跡(若宮八幡大神宮) [ 南・約0.8km ] 大阪冬の陣 上杉景勝本陣之地(八劔神社) [ 南・約0.8km ] 大坂冬の陣 鴫野古戦場跡 [ 西・約2km ] 大阪城公園 [ 西・約3km ] 石山本願寺推定地 |
主な施設 |
石碑・案内板 |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・地下鉄「蒲生四丁目」駅から約0.4Km ・JR「鴫野」駅から約0.9Km 【バス】 ・大阪シティバス「新喜多大橋」「極楽橋」「地下鉄蒲生四丁目」バス停 【マイカー】 ・阪神高速「森小路IC」から約3Km |