新田義貞 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Sun, 19 Mar 2023 09:12:49 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 新田義貞 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 金ヶ崎城址 https://rekishidou.com/kanagasakijo/ https://rekishidou.com/kanagasakijo/#respond Wed, 13 Apr 2016 00:27:27 +0000 http://rekishidou.com/?p=2756 福井県敦賀市にあった城で、南北朝の戦乱、あるいは織田信長の「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる撤退戦の舞台として知られる。

歴史・概略

  • 読み:かながさきじょう・かねがさきじょう
  • 築城:平安時代末期
  • 廃城:
  • 築城主:平通盛
  • 構造:山城
  • 主な城主:気比氏・甲斐氏・朝倉氏
  • 平安時代末期、治承・寿永の乱(源平合戦)」において北陸の巨大勢力となった木曾義仲に対するため、平通盛(たいら・みちもり)が築いたのが始まりとされる。
  • 南北朝の時代には「湊川の戦い」に敗れた南朝方の新田義貞(にった・よしさだ)らが、後醍醐天皇の皇子らを伴って入城した。しかし北朝方の斯波高経(しば・たかつね)高師泰(こう・もろやす)らに攻められ落城、尊良親王(たかよししんのう)新田義貞の嫡男・新田義顕(にった・よしあき)らは城に火を放って自害、恒良親王(つねよししんのう)は捕縛された。

  • 花山院邸跡

    恒良親王が幽閉された花山院邸跡(京都府京都市)

  • 戦国時代、織田信長は対立していた越前朝倉氏の領国へと侵攻、金ヶ崎城を攻め落とした。しかし義理の弟である浅井長政の裏切りによって、朝倉軍と挟み撃ちにされる危機に陥った。信長はすぐさま金ヶ崎城をあとにし、わずかの供だけで朽木谷を越えなんとか京都への脱出に成功した。
    このとき木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が殿軍に名乗りを上げ、徳川家康とともに殿軍を引き受けたとされる。ただ、実際には殿軍の主力は明智光秀の軍であり、秀吉の天下となった際に秀吉の手柄に書き換えられたともいわれ、家康についても真偽は定かでない。
    この「金ヶ崎の戦い」における撤退戦は「金ヶ崎の退き口(のきぐち)」、または「金ヶ崎崩れ」とも呼ばれ、信長の大きな危機のひとつに数えられる。

  • 小谷城

    浅井長政の本拠・小谷城(滋賀県長浜市)

見どころ・おすすめ

  • 月見御殿-金ヶ崎城の最高所。本丸跡。敦賀湾の眺めがいい。
  • 木戸跡-南北朝の戦いで激戦があったとみられる場所。
  • 金崎宮-北朝軍に責められ自害・捕縛された恒良親王と尊良親王を祭神とする神社。
  • 尊良親王陵墓見込地-北朝軍に責められ自害した後醍醐天皇の皇子・尊良親王最期の地とされる場所。
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東寺 https://rekishidou.com/toji/ https://rekishidou.com/toji/#respond Thu, 28 Apr 2016 02:20:53 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=351 平安京遷都より続く京都にある真言宗寺院で教王護国寺(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる。高野山を開いた平安時代の高僧空海ゆかりの寺として知られている。

歴史・概略

  • 平安京造営の際、都の守りとして建てられた国立の官寺。平安京の南側中央に設置された正門ともいえる羅城門(らしょうもん)の東側に東寺(とうじ)、西側に西寺(さいじ)がそれぞれ建てられた。それから数十年後の弘仁14年(823年)、東寺は空海(弘法大師)に下賜され真言密教の根本道場となった。

  • 西寺跡

    基壇が残る西寺跡(京都府京都市)

  • 1200年に及ぶ長い歴史の中では衰退していた時期もあったが、多くの有力者によって支えられ、現在では京都観光の名所となっている。
  • 国宝(金堂・五重塔・大師堂・蓮花門・観智院客殿)
  • 世界遺産(古都京都の文化財)
  • おもな出来事
    ・796年 建立
    ・823年 真言密教根本道場となる
    ・1221年 京方の三浦胤義が立て籠り幕府軍と交戦(承久の乱
    ・1336年 足利尊氏新田義貞が交戦(延元の乱
    ・1336年 光厳上皇が仮の御所とする
    ・1467年 応仁の乱大内政弘が陣を置く
    ・1486年 火災により大部分を焼失
    ・1603年 豊臣秀頼の寄進により金堂建立
    ・1644年 徳川家光の寄進により五重塔建立
    ・1994年 世界遺産に認定
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手越河原古戦場跡(延元の乱) https://rekishidou.com/tegoshigawara/ https://rekishidou.com/tegoshigawara/#respond Tue, 08 Jan 2019 08:11:25 +0000 http://rekishidou.com/?p=6023 建武政権を離脱した足利軍と、後醍醐天皇の命を受けた新田軍の合戦の地。「延元の乱」で行われた合戦のひとつ。

歴史・概略

  • 「延元の乱(えんげんのらん)」とは、足利尊氏(あしかが・たかうじ)後醍醐天皇を中心とした政権「建武の新政(けんむのしんせい)」から離脱し、尊氏が幕府を樹立するまでの戦いの総称。ほかに「建武の乱(けんむのらん)」ともいう。
  • 建武2年(1335年)、後醍醐天皇は武家政権の動きを見せる足利尊氏に対し追討を決意、新田義貞(にった・よしさだ)率いる天皇軍と、尊氏の弟・足利直義(あしかが・ただよし)率いる足利軍が三河国矢作川にて激突した。
    この戦闘で足利軍は敗北し退却、さらに東へと進んだ遠江国手越河原(てごしがわら)で再び激突することとなった。
  • 戦闘は正午から午後8時頃まで17回に渡ったとされ、足利軍の敗北に終わった。このとき尊氏と協力関係にあった近江の佐々木道誉が新田軍に下った(ただし、この後の「箱根・竹ノ下の戦い」で再び足利軍に下っている)。
  • 「延元の乱」のおもな出来事
    建武2年11月 矢作川の戦い/12月 鷺坂の戦い/12月 手越河原の戦い/12月 箱根・竹ノ下の戦い/建武3年1月 京都攻防戦/2月 豊島河原の戦い/3月 多々良浜の戦い/5月 湊川の戦い/6月 京都攻防戦
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八国山(久米川の戦い) https://rekishidou.com/kumegawa-2/ https://rekishidou.com/kumegawa-2/#respond Wed, 24 Jan 2018 02:08:25 +0000 http://rekishidou.com/?p=6012 鎌倉幕府倒幕運動「元弘の乱」における戦闘のひとつ「久米川の戦い」が起こった場所。その際、倒幕軍を率いていた新田義貞が陣を張ったとされる場所。

歴史・概略

  • 元弘3年(1333年)5月8日、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒の綸旨を受け、上野国に本拠を持つ新田義貞(にった・よしさだ)が挙兵した。新田軍は幕府の本拠である鎌倉に向け鎌倉街道を南進、11日に武蔵国小手指原(こてさしはら)において新田軍と鎌倉幕府の追討軍が衝突した。
  • 翌12日、久米川に退いていた幕府軍を新田軍が急襲、さらに幕府軍を分倍河原(ぶばいがわら)まで退けた。その戦いの際に義貞が陣を張ったのが八国山で、戦いに勝った義貞が塚に旗を立てたと言われる。
  • 戦いはこの後も続き、この10日後鎌倉幕府は滅亡した。
  • <鎌倉幕府滅亡に至る新田義貞の主な戦い>
    5月5日または8日 挙兵
    5月11日 小手指原の戦い
    5月12日 久米川の戦い
    5月15日 分倍河原の戦い
    5月16日 関戸の戦い
    5月18日 鎌倉の戦い
    5月22日 鎌倉幕府滅亡

見どころ・おすすめ

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白旗塚(元弘の乱) https://rekishidou.com/shirahataduka/ https://rekishidou.com/shirahataduka/#respond Mon, 22 Jan 2018 01:24:29 +0000 http://rekishidou.com/?p=5988 鎌倉時代末期、新田義貞鎌倉幕府軍が衝突した「小手指原の戦い」において、義貞が陣を置いたとされる場所。

歴史・概略

  • 「小手指原の戦い(こてさしはらのたたかい)」とは、鎌倉幕府が滅亡するに至った「元弘の乱(げんこうのらん)」における戦闘のひとつ。
  • この戦闘が起こる2年前の元弘元年(1331年)から、後醍醐天皇などによる鎌倉幕府倒幕の動きが続けられていた。そして元弘3年(1333年)5月8日、ついに上野国の領主のひとりである新田義貞(にった・よしさだ)が挙兵するに至る。
    その後義貞は、幕府の本拠である鎌倉に向け鎌倉街道を南進、新田軍が武蔵国小手指原に差し掛かった11日、それを迎え撃とうとやってきた幕府軍と激突した。
  • 源氏一門である義貞は、源氏の象徴である白旗をここに立てたと伝わる。
  • ここでは勝敗はつかなかったが、このあと新田軍は幕府軍と戦いながら鎌倉へと進軍、ついには幕府を倒した。
  • <鎌倉幕府滅亡に至る新田義貞の主な戦い>
    5月5日または8日 挙兵
    5月11日 小手指原の戦い
    5月12日 久米川の戦い
    5月15日 分倍河原の戦い
    5月16日 関戸の戦い
    5月18日 鎌倉の戦い
    5月22日 鎌倉幕府滅亡

見どころ・おすすめ

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久米川古戦場跡(元弘の乱) https://rekishidou.com/kumegawa/ https://rekishidou.com/kumegawa/#respond Tue, 23 Jan 2018 02:55:09 +0000 http://rekishidou.com/?p=4832 鎌倉時代末期、鎌倉幕府の軍勢と新田義貞を中心とした倒幕勢力が戦った「久米川の戦い」が起こった場所。

歴史・概略

  • 「久米川の戦い(くめがわのたたかい)」とは、鎌倉時代末期後醍醐天皇が起こした倒幕の内乱「元弘の乱(げんこうのらん)」における戦闘のひとつ。
  • 元弘3年(1333年)5月8日、上野国で新田義貞(にった・よしさだ)が倒幕の兵を挙げ、幕府の本拠である鎌倉へ向け南進した。11日に倒幕軍を迎え撃つためやってきた幕府軍と武蔵国小手指原(こてさしはら)において衝突し、幕府軍は久米川まで退いた。
  • 翌12日、倒幕軍が久米川にいた幕府軍を攻撃、戦いは新田軍優勢で進み、幕府軍は分倍河原までさらに退却した。この後倒幕軍は鎌倉へと進軍し、最終的に北条氏を滅ぼし幕府を倒した。
  • <鎌倉幕府滅亡に至る新田義貞の主な戦い>
    5月5日または8日 挙兵
    5月11日 小手指原の戦い
    5月12日 久米川の戦い
    5月15日 分倍河原の戦い
    5月16日 関戸の戦い
    5月18日 鎌倉の戦い
    5月22日 鎌倉幕府滅亡

見どころ・おすすめ

  • このすぐ後ろの山が義貞が陣を張ったと言われる八国山で、将軍塚がある。
  • 北西5Kmほどの場所に小手指原古戦場があるので、そちらも一緒に回るといい。

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小手指原古戦場(元弘の乱) https://rekishidou.com/kotesashigahara/ https://rekishidou.com/kotesashigahara/#respond Sun, 21 Jan 2018 02:48:46 +0000 http://rekishidou.com/?p=4830 鎌倉時代末期、新田義貞鎌倉幕府軍が戦った「小手指原の戦い」が行われた場所。

歴史・概略

  • 「小手指原の戦い(こてさしはらのたたかい)」とは、鎌倉幕府と倒幕勢力による内乱「元弘の乱(げんこうのらん)」における戦闘のひとつ。後醍醐天皇の蜂起から幕府滅亡に至るまでの元徳3年(1331年)から元弘3年(1333年)にかけて行われた。
  • 元弘3年(1333年)5月8日、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕の綸旨を受けて、上野国を本拠とする新田義貞(にった・よしさだ)が挙兵、鎌倉へと進軍した。11日に入間川を渡って小手指原に入ったところで幕府軍と衝突、戦闘はどちらの勝利ともならず、この日は新田軍は入間川、幕府軍は久米川まそれぞれ退いた。
  • 翌12日には久米川で新田軍が勝利、新田軍はその勢いで鎌倉まで攻め込み、最終的に北条氏を自害に追い込んで幕府を倒した。
  • <鎌倉幕府滅亡に至る新田義貞の主な戦い>
    5月5日または8日 挙兵
    5月11日 小手指原の戦い
    5月12日 久米川の戦い
    5月15日 分倍河原の戦い
    5月16日 関戸の戦い
    5月18日 鎌倉の戦い
    5月22日 鎌倉幕府滅亡

見どころ・おすすめ

  • この石碑のすぐ西にある小山が白旗塚新田義貞が白旗を掲げたと伝わる。
  • 南東5Kmほどの場所に久米川古戦場があるので、そちらも一緒に回るといい。

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