吉田稔麿 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Sun, 19 Mar 2023 11:58:28 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 吉田稔麿 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 松下村塾 https://rekishidou.com/syokasonjuku/ https://rekishidou.com/syokasonjuku/#respond Thu, 03 Mar 2016 05:22:04 +0000 http://rekishidou.com/?p=1946 江戸時代末期、吉田松陰によって萩城下に開かれた私塾。

歴史・概略

  • 吉田松陰(よしだ・しょういん)は長州藩士の杉家に生まれ、幼名を寅之助といった。後に叔父である兵学師範・吉田大助の養子となり、私塾「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を主宰、江戸幕府による徹底弾圧「安政の大獄」によって死罪となった。
  • 松陰の叔父の玉木文之進天保13年(1842年)に開いた松下村塾が始まり。身分に関係なく塾生を受け入れたと言い、幼かった松陰自身も入門している。その後、安政4年(1857年)松陰が28歳のとき塾を引き継いだが、松陰はすぐに投獄されてしまった。そのため、主宰していたのは1年ほどのわずかな期間であったが、高杉晋作久坂玄瑞吉田稔麿入江九一寺島忠三郎伊藤博文山縣有朋など、幕末から明治にかけて活躍する数多くの人材を輩出した。
  • 世界遺産(明治日本の産業革命遺産)
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池田屋騒動之址(新選組) https://rekishidou.com/ikedaya/ https://rekishidou.com/ikedaya/#respond Sat, 19 Dec 2015 11:39:06 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=60 幕末の京都で新選組が起こした池田屋事件のあった場所。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • 南に500mほど行った場所に事件の発端となった、古高俊太郎邸跡がある。
  • 三条大橋にはこの事件の際についたと言われる刀傷があるので探してみるといい。また、三条大橋の東側には事件で犠牲となった志士たちを葬った墓所跡がある。
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吉田稔麿殉節地・山本覚馬八重邸・御土居跡 https://rekishidou.com/toshimarojunsetsu/ https://rekishidou.com/toshimarojunsetsu/#respond Mon, 28 May 2018 02:46:52 +0000 http://rekishidou.com/?p=7209 長州藩の志士・吉田稔麿池田屋事件の戦闘で亡くなった地。また山本覚馬新島八重の邸宅跡、および御土居の跡とされる。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • 周辺には幕末の歴史史跡が数多く点在するので、まとめて回るといい。

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久坂玄瑞・吉田稔麿等寓居跡(法雲寺) https://rekishidou.com/kusakayoshidagukyo/ https://rekishidou.com/kusakayoshidagukyo/#respond Fri, 01 Jun 2018 02:01:52 +0000 http://rekishidou.com/?p=7157 京都市にある浄土宗の寺院。
幕末の一時期、長州藩藩士の久坂玄瑞吉田稔麿らが当寺で生活していた。

歴史・概略

  • 碑文「久坂玄瑞 吉田稔麿 等寓居跡」「此南 池田屋事件 望月亀弥太終焉伝承地」「此南西 吉田稔麿所縁 塩屋兵助宅跡伝承地」
  • 法雲寺(ほううんじ)は、戦国時代末期源蓮社然譽上人が庵を営んだことに始まり、元和2年(1616年)に法雲寺となった。
    このすぐ南には長州藩邸があり、付近には長州藩士たちの多くが住み着いた。法雲寺もそうした宿所のひとつとして利用されたという。
  • 文久2年(1862年)、久坂玄瑞(くさか・げんずい)寺島忠三郎(てらしま・ちゅうざぶろう)らが長州藩士・長井雅楽(ながい・うた)殺害計画の処分により謹慎。
  • 文久2年(1862年)、亡命していた吉田稔麿(よしだ・としまろ)が自主、当寺で謹慎。
  • 元治元年6月5日(1864年7月8日)、新選組と尊攘派志士らの抗争・池田屋事件が勃発。南に隣接する角倉与一邸前で割腹した遺体が発見され、この事件において犠牲となった土佐藩望月亀弥太(もちづき・かめやた)であるとされた。
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池田屋事変殉難志士墓所跡(三縁寺跡) https://rekishidou.com/ikedayajunnan/ https://rekishidou.com/ikedayajunnan/#respond Mon, 05 Aug 2019 00:50:06 +0000 http://rekishidou.com/?p=7131 池田屋事件で犠牲となった志士たちの墓所跡。

歴史・概略

  • 元治元年6月5日(1864年7月8日)、尊攘派志士たちが潜伏していた宿屋を、京都の治安維持を担う新選組が襲撃した池田屋事件が起こる。この襲撃によって尊攘派の志士・宮部鼎蔵(みやべ・ていぞう)吉田稔麿(よしだ・としまろ)北添佶摩(きたぞえ・きつま)大高又次郎石川潤次郎杉山松助松田重助らが亡くなった。
  • 事件のあと、志士たちの遺体は幕府との対立を恐れて、寺の多くが引き取りを拒んだ。そのため、池田屋から近い、三条大橋の東にあった浄土宗法輪山三縁寺に埋葬された。
  • 昭和54年(1979年)、京阪電車三条駅の周辺開発の際、寺は墓所ともに岩倉に移転となった。現在は墓所跡を示す石碑だけが残されている。
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