森可成 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Mon, 20 Mar 2023 05:35:00 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 森可成 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 桶狭間古戦場伝説地 https://rekishidou.com/okehazama-2/ https://rekishidou.com/okehazama-2/#respond Mon, 25 Jan 2016 10:36:53 +0000 http://rekishidou.com/?p=921 永禄3年(1560年)、「桶狭間の戦い」が起こった地とされる。

歴史・概略

  • 駿河、遠江、三河を領する今川義元(いまがわ・よしもと)は大軍を率いて織田信長の領国である尾張へと侵攻する。対する織田軍の兵力は、今川軍の10分の1ほどであったと言われる。しかし、義元が沓掛城から大高城への移動の途中、「おけはざま山」で休息を取っているところに、織田軍が襲い掛かかって義元を討ち取ったという。
    ただし、兵力や戦闘の詳細など細かなことは分かっておらず、場所についてもここから1キロほど離れた名古屋市緑区にも桶狭間古戦場とされている場所があり、それぞれに本陣跡や墓などが存在する。
  • おもな出来事
    永禄3年
    5月12日 今川義元、駿府を発つ
    5月18日 大高城に兵糧を届ける
    5月19日 織田信長、熱田神宮で先勝祈願
    5月19日 丸根砦、鷲津砦落城 
    5月19日 桶狭間で今川義元を討ち取る
    5月19日 松平元康(徳川家康)、大高城より撤退
    6月21日 信長、沓掛城を奪還 
  • 「桶狭間の戦い」前後のおもな出来事
    1551年 信長の父信秀死去
    1556年 斎藤道三義龍に討ち取られる
    1560年 桶狭間の戦い
    1562年 信長、松平元康(徳川家康)と同盟を結ぶ
    1567年 信長、美濃を攻略
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桶狭間古戦場公園 https://rekishidou.com/okehazama/ https://rekishidou.com/okehazama/#respond Sun, 27 Dec 2015 09:54:04 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=478 永禄3年(1560年)、尾張の織田信長が大軍率いる今川義元を討ち取った、いわゆる「桶狭間の戦い」が起こった地。

歴史・概略

  • 駿河、遠江、三河を領する今川軍の兵力は約2万5千。それに対する織田軍の兵力は3千ほどしかなく、およそ10倍の敵を打ち破った歴史上最も有名な戦いのうちの一つである。(兵力については諸説あり)
  • 前日に沓掛城まで進んできた義元は、大高城への移動を開始した。途中、「おけはざま山」の陣地で休息しながら丸根砦、鷲津砦陥落の報告を受け気をよくしていた。そして正午ごろ、天気が急変し激しい雷雨となって今川軍は混乱をきたした。
  • 一方、丸根砦と鷲津砦が攻撃を受けたことを聞いた信長は、すぐさま居城の清州城を出陣、「おけはざま山」で休息中の今川軍本陣を急襲、義元を討ち取った。
  • おもな出来事
    <永禄3年>
    5月12日 今川義元、駿府を発つ
    5月18日 大高城に兵糧を届ける
    5月19日 織田信長、熱田神宮で先勝祈願
    5月19日 丸根砦、鷲津砦落城 
    5月19日 桶狭間で今川義元を討ち取る
    5月19日 松平元康(徳川家康)、大高城より撤退
    6月21日 信長、沓掛城を奪還 
  • 「桶狭間の戦い」前後のおもな出来事
    1551年 信長の父信秀死去
    1556年 斎藤道三義龍に討ち取られる
    1560年 桶狭間の戦い
    1562年 信長、松平元康(徳川家康)と同盟を結ぶ
    1567年 信長、美濃を攻略

見どころ・おすすめ

  • 織田信長像・今川義元像-合戦が行われた当時の姿を再現。
  • ジオラマ地形-合戦が行われた当時の地形や城、砦などを再現。
  • 今川義元の墓-この合戦で討ち取られた義元公の墓。
  • 東に坂を上っていくと今川義元が本陣を置いたとされる場所(今川義元本陣跡)があり、石碑が立てられている。
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金ヶ崎城址 https://rekishidou.com/kanagasakijo/ https://rekishidou.com/kanagasakijo/#respond Wed, 13 Apr 2016 00:27:27 +0000 http://rekishidou.com/?p=2756 福井県敦賀市にあった城で、南北朝の戦乱、あるいは織田信長の「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる撤退戦の舞台として知られる。

歴史・概略

  • 読み:かながさきじょう・かねがさきじょう
  • 築城:平安時代末期
  • 廃城:
  • 築城主:平通盛
  • 構造:山城
  • 主な城主:気比氏・甲斐氏・朝倉氏
  • 平安時代末期、治承・寿永の乱(源平合戦)」において北陸の巨大勢力となった木曾義仲に対するため、平通盛(たいら・みちもり)が築いたのが始まりとされる。
  • 南北朝の時代には「湊川の戦い」に敗れた南朝方の新田義貞(にった・よしさだ)らが、後醍醐天皇の皇子らを伴って入城した。しかし北朝方の斯波高経(しば・たかつね)高師泰(こう・もろやす)らに攻められ落城、尊良親王(たかよししんのう)新田義貞の嫡男・新田義顕(にった・よしあき)らは城に火を放って自害、恒良親王(つねよししんのう)は捕縛された。

  • 花山院邸跡

    恒良親王が幽閉された花山院邸跡(京都府京都市)

  • 戦国時代、織田信長は対立していた越前朝倉氏の領国へと侵攻、金ヶ崎城を攻め落とした。しかし義理の弟である浅井長政の裏切りによって、朝倉軍と挟み撃ちにされる危機に陥った。信長はすぐさま金ヶ崎城をあとにし、わずかの供だけで朽木谷を越えなんとか京都への脱出に成功した。
    このとき木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が殿軍に名乗りを上げ、徳川家康とともに殿軍を引き受けたとされる。ただ、実際には殿軍の主力は明智光秀の軍であり、秀吉の天下となった際に秀吉の手柄に書き換えられたともいわれ、家康についても真偽は定かでない。
    この「金ヶ崎の戦い」における撤退戦は「金ヶ崎の退き口(のきぐち)」、または「金ヶ崎崩れ」とも呼ばれ、信長の大きな危機のひとつに数えられる。

  • 小谷城

    浅井長政の本拠・小谷城(滋賀県長浜市)

見どころ・おすすめ

  • 月見御殿-金ヶ崎城の最高所。本丸跡。敦賀湾の眺めがいい。
  • 木戸跡-南北朝の戦いで激戦があったとみられる場所。
  • 金崎宮-北朝軍に責められ自害・捕縛された恒良親王と尊良親王を祭神とする神社。
  • 尊良親王陵墓見込地-北朝軍に責められ自害した後醍醐天皇の皇子・尊良親王最期の地とされる場所。
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勝龍寺城跡 https://rekishidou.com/syouryujijo/ https://rekishidou.com/syouryujijo/#respond Sat, 19 Dec 2015 12:10:16 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=66 京都府長岡京市にあった城。小竜寺城とも呼ばれる。
戦国時代には細川氏の城となり、明智光秀の娘たま(後のガラシャ夫人)が輿入れし、暮らした城として知られる。

歴史・概略

  • 読み:しょうりゅうじじょう
  • 築城:延元4年/暦応2年(1339年)
  • 廃城:慶安2年(1649年)
  • 築城主:細川頼春か
  • 構造:平城・梯郭式
  • 主な城主:岩成友通細川藤孝など

見どころ・おすすめ

  • 資料室では細川氏や「山崎の合戦」に関わる展示がされている。
  • 「山崎の合戦」に敗れた明智光秀が坂本城を目指して抜け出したという北門が残っており、当時の石垣が見られる。
  • 天守があったと考えられる西側の土塁からは天王山を望むことができる。
  • 山崎から長岡京にかけて周辺には「山崎の合戦」に関連する史跡が点在しているので、同時に回るのがおすすめ。1日で全部を回り切るのは結構大変かもしれないが、合戦のスケール感が掴める。
  • 天王山中腹の旗立松からは合戦場所周辺を俯瞰して見ることができる。
  • 少し北側に土塁と空堀跡があるので、勝龍寺城をひとしきり回ったら寄ってみるといい。
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勝龍寺城土塁 空堀跡 https://rekishidou.com/syouryujijo-3/ https://rekishidou.com/syouryujijo-3/#respond Wed, 02 Dec 2020 03:03:11 +0000 https://rekishidou.com/?p=9324 勝龍寺城は室町時代から江戸時代初期にかけて京都府長岡京市にあった城。
勝竜寺城・小竜寺城などの字もあてられる。

歴史・概略

  • 延元4年/暦応2年(1339年)、細川頼春(細川藤孝の祖)により築城されたといわれるが信ぴょう性は低い。
  • 永禄9年(1566年)、三好三人衆のひとり岩成友通(いわなり・ともみち)に攻められ落城した。
  • 永禄11年(1568年)、織田信長足利義昭を奉じて上洛、三好勢力下にあった摂津の諸城を攻撃した。その際に勝竜寺城も攻撃を受け落城した(勝竜寺城の戦い)
  • 元亀2年(1571年)、幕臣の細川藤孝が西岡(京都の西側)に領地をもらい入城した。この後、勝龍寺城が織田氏の京都支配の拠点となる。
  • 天正6年(1578年)、明智光秀の娘・お玉(後のガラシャ夫人)藤孝の嫡男・細川忠興(ほそかわ・ただおき)に輿入れし、勝龍寺城で生活を送った。
  • 天正10年(1582年)、明智光秀が「本能寺の変」を起こした直後、光秀の属城となる。
  • 天正10年(1582年)、羽柴秀吉が京都に攻め上り勝龍寺城のすぐ南の山崎において明智光秀と戦闘山崎の合戦。この戦いにおいて光秀は勝龍寺城を後方基地とした。
    「山崎の戦い」で敗北した光秀は、一旦は勝龍寺城に帰城したものの、この城では籠城戦を戦えないと判断し、城を抜け出して居城の坂本城を目指した。しかし、このあと光秀は落ち武者狩りによって命を落とすこととなった。
    これ以後しばらくの間、勝龍寺城は廃城状態であったと思われる。
  • 寛永10年(1633年)、旗本の永井直清が入府し、山城長岡藩が立藩。直清は勝龍寺城の改修を試みるも水はけの悪さから断念し、北側に新たな本丸を設けた。
  • 慶安2年(1649年)、廃城
  • 「山崎の合戦」前後の出来事
    6月2日 本能寺の変
    6月6日 羽柴秀吉が備中高松城より引き上げ(中国大返し)(日付は諸説あり)
    6月13日 山崎の合戦
    6月13日 明智光秀が戦いに敗れ勝龍寺城へ帰城
    6月13日 明智光秀が坂本城へ逃げる途中で絶命
    6月14日 坂本城落城
    6月15日 安土城本丸焼失
    6月27日 清須会議
  • 読み:しょうりゅうじじょう
  • 築城:延元4年/暦応2年(1339年)
  • 廃城:慶安2年(1649年)
  • 築城主:細川頼春?
  • 構造:平城・梯郭式
  • 主な城主:岩成友通細川藤孝など

見どころ・おすすめ

  • 土塁や空堀がかなりはっきりとした状態で残っている。土塁構造をタイルで示したり案内板なども設置されているので結構楽しめる。
  • この場所のすぐ南側には勝龍寺城跡がある。堀や模擬櫓などが復元された公園として整備されている。
  • 勝龍寺城だけに気をとられているとこの土塁は見過ごされてしまいがちだが、勝龍寺城に行った後にでも寄ってみるといい。

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