平清盛 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Sat, 06 May 2023 02:40:11 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 平清盛 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 三十三間堂(蓮華王院) https://rekishidou.com/sanjusangendo/ https://rekishidou.com/sanjusangendo/#respond Fri, 29 Apr 2016 02:24:48 +0000 http://rekishidou.com/?p=3421 平安時代末期、後白河上皇によって創建された寺院。現在では新成人が袴姿で矢を射る「通し矢」が行われる場所としてよく知られている。

歴史・概略

  • この地には後白河上皇が離宮としていた法住寺殿があり、当時権力を握っていた平清盛の資金協力によって、その邸内に建てられたのが蓮華王院(れんげおういん)である。
    創建時には五重塔など多くの伽藍が整備されたが、その後の火災によって焼失した。現在みられる三十三間堂の建物は鎌倉時代に再建されたもので、国宝に指定されている。
  • 長い本堂内には1000体以上の仏像が納められており、一部は創建当時の仏像が残っている。実はこれと同じような堂(得長寿院)は白河にも建てられており、約30年前清盛の父・平忠盛によって建立された。清盛がこの堂をモデルに三十三間堂を建てたものとみられている。
  • 堂の名の由来は、堂の柱間が33あるところからきており、これは観音菩薩の33の化身を意味している。
  • 長寛2年(1165年)、三十三間堂が完成。
  • 建長元年(1249年)、「建長の大火」により伽藍を焼失。
  • 文永3年(1266年)、本堂のみ再建。
  • 安土桃山時代、この北側に豊臣秀吉によって方広寺が建立され、三十三間堂も方広寺の伽藍の一部に組み込まれた。その際、秀吉や息子の秀頼によって整備が行われ、そのとき整備された壁や門は今も残っている。

見どころ・おすすめ

  • 本堂(三十三間堂)-国宝。約1000体の仏像が納められている。
  • 太閤塀-重要文化財。豊臣秀吉が方広寺の整備に伴って造られた築地塀。
  • 南大門-重要文化財。豊臣秀頼によって整備された門。以前は同時期に整備された西大門もあったが、こちらは東寺に移築された。
  • この周辺には後白河上皇ゆかりの法住寺殿跡後白河天皇法住寺陵のほか、かつて境内として組み込まれた方広寺などがある。

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六波羅蜜寺(平氏六波羅第・六波羅探題府址碑) https://rekishidou.com/rokuharamitsuji/ https://rekishidou.com/rokuharamitsuji/#respond Sat, 30 Apr 2016 01:32:25 +0000 http://rekishidou.com/?p=2456 天暦5年(951年)、市聖(いちひじり)と呼ばれた空也上人によって開かれた真言宗寺院。

歴史・概略

  • 空也上人(くうやしょうにん)平安時代中期の僧で、当時都に蔓延していた疫病平癒のため踊りながら念仏を唱え病人に茶を振る舞ったとされる。
  • 平安時代末期には平氏一門がこの一帯に六波羅館を営み、平氏最盛期の拠点となった。しかし、平家の柱であった平清盛が亡くなると勢力は衰え都を離れることとなった。そして居館は平氏が都落ちする際に焼き払われたという。
  • 鎌倉時代初期(承久の乱の後)には朝廷の監視や治安維持、西国の監視などを目的にこのあたりに鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題が置かれた。
  • 平氏六波羅第・六波羅探題府址碑

    平氏六波羅第・六波羅探題府址碑(六波羅蜜寺・京都府京都市)

  • 元弘3年(1333年)、幕府に反旗を翻した足利高氏(後の尊氏)の攻撃を受け六波羅探題が滅亡。同じく関東では新田義貞らが挙兵し鎌倉幕府が滅亡した(元弘の乱)。

見どころ・おすすめ

  • 本堂-貞治2年(1363年)。重要文化財。
  • 宝物館-寺宝の展示館。木造空也上人立像・平清盛座像など。
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平清盛終焉推定地・高倉天皇誕生地 https://rekishidou.com/kiyomorisyuen/ https://rekishidou.com/kiyomorisyuen/#respond Sat, 17 Aug 2019 01:56:51 +0000 http://rekishidou.com/?p=7253 平安時代末期、平清盛の側近として活躍した平盛国の邸宅跡(推定地)。この邸内で平清盛が没したとされる。

歴史・概略

  • 碑文
    「此付近 平清盛終焉推定地」
    「平安京左京八条四防一三町」
    「此付近 高倉天皇誕生地」
  • 平盛国(たいら・もりくに)平清盛と同じ伊勢平氏の一族で、平氏隆盛のきっかけともなった「保元の乱」「平治の乱」においても活躍、清盛の側近として仕えたが平家滅亡後は鎌倉に送られ自害している。
  • 平家が都を支配していた当時、平家一門の多くは鴨川の東側の六波羅と、西側の西八條第の二か所を拠点とし居を構えていた。拠点の間には隙間を埋めるように平家の一族の居館があり、この屋敷もそういった屋敷のひとつであった。
  • 応保元年(1161年)、平清盛の妻の異母妹であった平滋子(建春門院)が、邸内で憲仁親王(後の高倉天皇)を出産。この後、清盛は天皇の外戚として権勢を振るった。
  • 治承5年(1181年)、源頼朝木曾義仲武田信義らが相次いで挙兵するなど反平氏の動きが活発化する中、平家の中心的柱である平清盛が邸内で病没。清盛は死の間際「葬儀は不要。我が墓前に頼朝の首を備えよ。」と言ったとされている。
    この清盛の死後、平家は急速に力を失い滅亡への道をたどっていくこととなった。
    旗挙八幡宮

    木曽義仲挙兵の地・旗挙八幡宮(長野県木曽郡木曽町)

見どころ・おすすめ

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西八条第跡(平家一族の邸宅跡) https://rekishidou.com/nishihachijotei/ https://rekishidou.com/nishihachijotei/#respond Tue, 05 Nov 2019 02:41:19 +0000 http://rekishidou.com/?p=3196 平安時代末期、権力の座についた平家の頭領・平清盛が京に構えた邸宅跡。

歴史・概略

  • 平氏政権が樹立するきっかけとなった「平治の乱(1159年)」の7年後にあたる仁安元年(1166年)、平清盛によって造営されたといわれる。六町の敷地を有する広大な屋敷で清盛が上洛した際にはこの屋敷が使用されたという。
    清盛が屋敷内に蓬(よもぎ)を植えたことに因んで、蓬壺(ほうこ)とも呼ばれた。
  • 治承5年(1181年)、清盛が64歳で没した2日後には放火によって50余りの建物が被害を受けたが、一旦は再建はされた。しかし、木曽義仲の入京によって平氏が都落ちする際に、自らが放った火によって再び焼失した(平氏都落ち)。
    平家は政権復帰のためこの後も戦い続けたが、二度と京都の地を踏むことなくこのおよそ4年後に滅亡した。
  • 平成の発掘調査により土器や柱跡のほか、火災があったことを示す遺構も出土しており、記録に書かれた出来事の裏付けがされている。

見どころ・おすすめ

  • これを東に1キロほど行った場所にも西八条殿跡碑(若一神社)が立つ。

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平清盛公西八条殿跡 https://rekishidou.com/nishihachijodono/ https://rekishidou.com/nishihachijodono/#respond Sun, 17 Apr 2016 23:22:17 +0000 http://rekishidou.com/?p=1275 平安時代末期、武家政権を打ち立て権勢を誇った平清盛が京に築いた邸宅跡。

歴史・概略

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高松殿跡 https://rekishidou.com/takamatsudono/ https://rekishidou.com/takamatsudono/#respond Sun, 22 May 2016 03:38:01 +0000 http://rekishidou.com/?p=1087 平安時代、歴代上皇が院御所とした邸宅跡

歴史・概略

見どころ・おすすめ

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