藤原詮子 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Thu, 30 Nov 2023 11:18:21 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 藤原詮子 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 宇治陵 https://rekishidou.com/ujiryo/ https://rekishidou.com/ujiryo/#respond Fri, 12 May 2023 05:11:59 +0000 https://rekishidou.com/?p=12218 京都府宇治市にある古墳群および平安時代の藤原氏一族の墳墓。そのひとつである1号墳で、宇治陵の総遥拝所ともなっている。

歴史・概略

  • 宇治陵(うじりょう・うじのみささぎ)は南北約1.8Km、東西約0.9Kmの範囲に広がる古墳・陵墓の総称。古墳時代の円墳や前方後円墳、平安時代藤原北家一族やそこから入内した女性、その皇子など300以上の陵墓が含まれる。
  • 明治10年(1877年)、宮内庁が17陵3墓を木幡陵に指定、現在は宇治陵となり37個所が宮内庁の管理下に置かれている。それぞれ1号墳から37号墳までの番号が付けられており、この1号墳は宇治陵の中央付近にあたる。
  • ただ陵墓の被葬者は特定されておらず、それぞれ誰が眠っているかは不明。被葬者とされている人物が宇治陵とはまったく別の場所に埋葬されている可能性すらある。いちおう32号墳が藤原道長、34号墳が藤原冬嗣、35号墳が藤原時平、36号墳が藤原基経であるといわれている。
  • 宮内庁の立て札には20名(17陵3墓)の名が記されている。
    (陵)宇多天皇女御中宮 温子
    (陵)醍醐天皇皇后 穏子
    (陵)村上天皇皇后 安子
    (陵)冷泉天皇女御贈皇太后 懐子
    (陵)冷泉天皇女御贈皇太后 超子
    (陵)円融天皇皇后 遵子
    (陵)円融天皇皇后 媓子
    (陵)円融天皇女御尊称皇太后 詮子
    (陵)一条天皇皇后 彰子
    (陵)三条天皇皇后 娍子
    (陵)三条天皇皇后 妍子
    (陵)後一条天皇皇后 威子
    (陵)後朱雀天皇即位前妃贈皇太后 嬉子
    (陵)後冷泉天皇皇后 寛子
    (陵)後冷泉天皇皇后 歓子
    (陵)後三条天皇即位前妃贈皇太后 茂子
    (陵)堀河天皇女御贈皇太后 苡子
    (墓)宇多天皇皇子 敦実親王
    (墓)冷泉天皇皇子 敦道親王
    (墓)後朱雀天皇女御准后 藤原生子
  • 宇治陵宮内庁立札

    宇治陵1号墳に掲げられている宮内庁の立札

  • 墳墓の西側入り口付近には藤原氏塋域と書かれた石碑が立てられている。塋域(えいいき)とは墓所のことであり、ここには藤原氏8名の名が刻まれている。
    閑院贈太政大臣 冬嗣
    昭宣公関白 基経
    本院贈太政大臣 時平
    法興院摂政 兼家
    南院関白 道隆
    法成寺関白 道長
    宇治関白 頼通
    後宇治関白 師實(師実)
  • 藤原氏塋域碑

    宇治陵1号墳前にある藤原氏塋域碑

見どころ・おすすめ

  • 藤原氏塋域碑の裏面に「伝寛弘2年造立浄妙寺堂桂礎石 木幡区供与石塔婆共」との記述があり、真相は不明だが寛弘2年(1005年)に道長によって建立された浄妙寺の礎石を利用したということらしい。
  • 周辺にはその浄妙寺跡のほか、1号から37号までの宇治陵がある。

]]>
https://rekishidou.com/ujiryo/feed/ 0
土御門第跡(京都御苑・藤原道長邸) https://rekishidou.com/tsuchimikadodai/ https://rekishidou.com/tsuchimikadodai/#respond Sun, 27 Mar 2016 10:16:04 +0000 http://rekishidou.com/?p=2808 平安時代の中期、権力の座に上り詰め栄華を極めた藤原道長の邸宅跡。

歴史・概略

  • 藤原道長(ふじわら・みちなが)は、平安時代中期の摂政(後一条天皇)・太政大臣。摂政・藤原兼家の五男であり、摂政・関白は兄たちが継承していったため、本来ならば権力の座につく立場にはなかった。しかし、その兄たちが相次いで亡くなったことにより権力争いが勃発、道長はこの争いを制して藤原氏の長者となった。
  • 土御門第(つちみかどだい・つちみかどてい)はもともと宇多天皇を祖とする源雅信の屋敷で、後に雅信の娘・倫子道長が結婚、雅信が亡くなったあと屋敷を継承したとみられる。
  • 土御門第の名は土御門大路に面していたことに由来し、この道が大内裏の上東門から伸びる道であったことから上東門殿とも呼ばれた。道長の娘・藤原彰子(ふじわら・しょうし)が後に上東門院と呼ばれたのもこの屋敷に起因している。
  • 道長は娘の彰子一条天皇の中宮とし、後の後一条天皇後朱雀天皇をこの邸内で出産している。また後朱雀天皇東宮妃となった道長の娘・嬉子も、後の後冷泉天皇をここで産んでいる。
  • さらに道長の晩年には、邸の東側に鴨川にかけて広大な規模を持つ法成寺(ほうじょうじ)を建立するなどし、藤原氏としての最盛期を過ごした。建物は火災によって焼失、再建を度々繰り返したが、やがて時代とともに藤原氏の権力も陰りを見せ、土御門第も法成寺も次第に廃れていった。

見どころ・おすすめ

  • かつて存在していた宮家や公家屋敷の多くは、一部を残してほとんどが撤去されており、今は一年中草花が楽しめる公園として整備されている。
  • 京都御苑内は平安時代から幕末に至る屋敷跡が点在し、いたるところに説明書きの駒札が立てられているので、それを巡るだけでもかなり楽しめる。
]]>
https://rekishidou.com/tsuchimikadodai/feed/ 0
東三条殿跡 https://rekishidou.com/higashisanjodono/ https://rekishidou.com/higashisanjodono/#respond Fri, 20 May 2016 01:27:05 +0000 http://rekishidou.com/?p=1084 平安時代、政治権力の中枢に君臨し続けた藤原氏の邸宅跡、および御所跡。

歴史・概略

  • 東三条殿(ひがしさんじょうどの・とうさんじょうどの)は、平安時代初期から後期にかけて藤原摂関家当主や皇族の御所として使われた邸宅跡で、東三条院とも呼ばれる。
  • 平安時代初期、藤原氏として初めて摂政に就き、その後の藤原氏隆盛の基礎を作った藤原良房が、ここに屋敷を置いたことに始まったとされる。以降、忠平兼家など藤原摂関家に受け継がれた。天皇家に深く結びついていた藤原氏は、娘たちを天皇家に嫁がせ、兼家の娘・超子居貞親王(おきさだしんのう/後の三条天皇、同じく兼家の娘・詮子懐仁親王(やすひとしんのう/後の一条天皇をここで産んでいる。
    屋敷の名前から兼家東三条殿詮子東三条院と称された。
  • 平安時代末期には皇位継承を巡って、崇徳上皇後白河天皇との間で対立が激化するに至った。
    保元元年(1156年)、崇徳上皇側についていた藤原頼長の屋敷であった東三条殿に兵を集め、この計画を知った後白河天皇側の勢力によって接収された。このことによって一気に戦闘へと発展し保元の乱(ほうげんのらん)」が発生した。
    乱の後、屋敷は忠通のものとなり、一時期後白河天皇二条天皇の里内裏ともなっている。
  • 仁安元年(1166年)、火災により焼失。これ以後、再建されることはなかった。

見どころ・おすすめ

]]>
https://rekishidou.com/higashisanjodono/feed/ 0
一条院跡 https://rekishidou.com/ichijoin/ https://rekishidou.com/ichijoin/#respond Tue, 25 Feb 2020 03:45:55 +0000 http://rekishidou.com/?p=7419 平安時代中期の邸宅跡、御所跡。

歴史・概略

見どころ・おすすめ

  • 付近は聚楽第大内裏に関する史跡が点在しているので、そのついでにでも回るといい。
  • ここから北東に少し行った場所に、一条天皇が安倍晴明屋敷跡地に建てたという晴明神社がある。

]]>
https://rekishidou.com/ichijoin/feed/ 0
凝花舎(梅壺)・飛香舎(藤壺) 跡 https://rekishidou.com/fujitsubo/ https://rekishidou.com/fujitsubo/#respond Mon, 19 Sep 2022 05:49:49 +0000 http://rekishidou.com/?p=7230 平安京内裏内にあった皇族の屋敷跡。

歴史・概略

  • 延暦13年(794年)、桓武天皇(かんむてんのう)によって長岡京より平安京へ遷都、以来1000年に渡って日本の首都となった。
    平安京京域の北側にあたるこの付近一帯には大内裏(だいだいり)があり、その領域は東西1.2キロ、南北1.4キロに及んだ。大内裏とは天皇の居住区である内裏を始め数多くの行政機関が立ち並ぶ場所で、都の中心ともいえる場所であった。
  • この付近は大内裏の中でも内裏の北側奥部分にあたり、いわゆる後宮と呼ばれる場所である。エリア内には天皇の妃や子、世話をする女官などが住む建物が立ち並び、これらを七殿五舎と呼んだ。
    案内があるあたりには凝花舎(ぎょうかしゃ)があり、すぐ南側に飛香舎(ひぎょうしゃ)があった。
  • 【七殿五舎】
    弘徽殿承香殿・麗景殿・登華殿・貞観殿・宣耀殿・常寧殿
    飛香舎凝花舎昭陽舎・淑景舎・襲芳舎
  • 凝花舎(ぎょうかしゃ)は内裏の北西部にあった殿舎のひとつ。襲芳舎(しゅうほうしゃ/しほうしゃ)の南、弘徽殿(こきでん)の西、飛香舎(ひぎょうしゃ)の北。庭(壺)に紅白の梅が植えてあったことから梅壺(うめつぼ)とも呼ばれる。
    有名なところでは円融天皇女御の藤原詮子が住まいとしている。
  • 飛香舎(ひぎょうしゃ)は内裏の北西部にあった殿舎のひとつ。凝花舎(ぎょうかしゃ)の南、弘徽殿(こきでん)の西、清涼殿(せいりょうでん)の北。庭(壺)に藤が植えてあったことから藤壺(ふじつぼ)とも呼ばれる。
    有名なところでは一条天皇中宮の藤原彰子三条天皇中宮の藤原妍子後一条天皇中宮の藤原威子などが住まいとしている。
  • 【源氏物語】藤壺中宮(桐壺帝の中宮)の住まい。彼女は主要人物のひとりで光源氏が初めて思いを寄せた女性である。作者の紫式部が仕えた藤原彰子が屋敷の主人であったことが物語に影響を与えたといわれる。

源氏物語や紫式部に興味がある方はこちらの記事もどうぞ

紫式部と源氏物語をわかりやすく簡単に解説!最初は漫画本がおすすめ
源氏物語──平安時代の優美で複雑な世界に触れると、まるでタイムトラベルしたような感覚に包まれます。ですが、初めてこの文学に触れた人は煩雑な古文や謎めいた人物たち...

見どころ・おすすめ

  • かつての大内裏跡地は、いまは住宅地となっており当時を思わせるものは何も残っていない。ただ、石碑があちこちに立てられているのでまわってみるのがおすすめ。

]]>
https://rekishidou.com/fujitsubo/feed/ 0