徳川慶喜 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 場所と歴史をわかりやすく簡単に解説! Wed, 03 May 2023 02:00:04 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.5 https://rekishidou.com/wp-content/uploads/cropped-kofun-32x32.jpeg 徳川慶喜 | 場所と地図 – 歴史のあと https://rekishidou.com 32 32 江戸城跡(皇居) https://rekishidou.com/edojo/ https://rekishidou.com/edojo/#respond Fri, 18 Mar 2016 01:02:16 +0000 http://rekishidou.com/?p=2600 東京都千代田区にある城。
徳川家康によって開かれた江戸幕府の拠点として知られる。

歴史・概略

  • 築城:長禄元年(1457年)
  • 廃城:
  • 築城主:太田道灌
  • 構造:輪郭式・平城
  • 主な城主: 太田氏・扇谷上杉氏・北条氏・徳川氏・皇室
  • 日本100名城
  • 長禄元年(1457年)、関東に勢力を張っていた扇谷上杉氏の家臣・太田道灌(おおた・どうかん)が平安時代よりこの地に勢力を張っていた江戸氏居館に江戸城を築城。
  • 大永4年(1524年)、北条氏の勢力拡大により北条氏の城となる。
  • 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の「小田原攻め(小田原征伐)」により北条氏は降伏、この時の戦功によって家康が北条氏の旧領に入り江戸城を本拠とする。
  • 秀吉の死後勃発した「関ケ原の戦い」に勝利し家康が幕府を開いた後もここを本拠とし、幕末まで続く。
  • 慶長8年(1603年)~万治3年(1660年)、天下普請による江戸城改修工事が続く。
  • 明暦3年(1657年)、明暦の大火により天守を含め建物の多くを焼失。
  • 安政2年(1855年)、安政大地震で建物や石垣などに被害。
  • 慶応4年(1868年)、徳川家が新政府軍に江戸城を明け渡す。
  • 明治2年(1869年)、明治天皇が「禁門の変」で荒廃していた京都より遷り皇居となる。

見どころ・おすすめ

  • 天守台-明暦の大火で焼失し再建された天守台。しかし後に天守は不要とされ天守は再建されなかった。
  • 桜田門・田安門・清水門-国の重要文化財。
  • 大番所・百人番所・同心番所-警護員の詰所。
  • 富士見多聞-江戸城で唯一現存している多門櫓。
  • 松の大廊下跡-浅野内匠頭(長矩)が吉良上野介(義央)に刃傷に及んだというあの廊下跡。
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大阪城公園 https://rekishidou.com/osakajo/ https://rekishidou.com/osakajo/#respond Sat, 19 Dec 2015 09:22:22 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=12 大阪府大阪市にある城。

歴史・概略

大阪城(おおさかじょう)は、天正11年(1583年)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉によって築城され、その後秀吉政権の本拠地となった。築城時の総奉行は黒田官兵衛で縄張りも行った。城の北側に大川が流れる天然の要害で、築城以前には石山本願寺が建っていた。別名金城、または錦城ともいう。

秀吉の死後、遺児である豊臣秀頼が政権を引き継いだが、関ケ原の戦いを経て江戸幕府を開いた徳川家康の率いる大軍に攻められ落城した。その後、江戸幕府により大掛かりな改修が行われ、豊臣時代の遺構は土の中へと消えた。現在残っている櫓や石垣、縄張りのほとんどは江戸期のものである。

天守は豊臣時代と徳川時代に築かれたがいずれも焼失し、今ある天守は昭和になってから市民の寄付によって再建された。下から4層目までは徳川時代風の漆喰の白い壁、5層目は豊臣時代風に黒い壁に金箔で虎などを描くなどしている天守は、今や大阪のシンボルとなっている。

豊臣時代大阪城復元模型

豊臣時代大阪城復元模型(大阪城天守閣)


徳川時代大阪城復元模型

徳川時代大阪城復元模型(大阪城天守閣)

  • 築城:天正11年(1583年)
  • 廃城:明治元年(1868年)
  • 築城主:豊臣秀吉
  • 構造:平城・輪郭式
  • 日本100名城
  • 重要文化財(大手門・多門櫓・千貫櫓・乾櫓など)
  • 天正11年(1583年)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)により石山本願寺跡地に築城。工事はほかに天正14年(1586年)文禄3年(1594年)慶長3年(1598年)など数度に渡って行われた。
  • 天正14年(1586年)、大阪城内において徳川家康秀吉に対し諸大名が列するなか臣従を誓った。
  • 慶長5年(1600年)、石田三成が挙兵三成が城内にいる大名家の人たちを拘束。このとき細川ガラシャは人質となることを拒否して自害。
  • 慶長8年(1603年)、徳川秀忠の娘・千姫秀頼に輿入れ。
  • 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が起こる。
  • 慶長20年(1615年)、大坂夏の陣が起こる。
  • 寛永6年(1629年)、大修築完了。
  • 寛文5年(1665年)、落雷により天守焼失。
  • 慶応2年(1866年)、長州征伐で上洛していた将軍・徳川家茂が大阪城で病没。
  • 慶応3年(1868年)、徳川慶喜が京都二条城から大阪城に退去。
  • 慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦い」により慶喜が江戸へ退去。
  • 昭和6年(1931年)、復興天守閣完成。
  • 「大阪の陣」のおもな出来事
    <慶長19年>7月 方広寺梵鐘の銘文事件/10月 豊臣方・徳川方開戦準備/11月 木津川口の戦い/11月 今福の戦い/11月 鴫野の戦い/11月 博労淵の戦い/11月 野田・福島の戦い/12月 真田丸の戦い/12月 豊臣方と徳川方が和議/12月 堀の埋め立て開始
    <慶長20年>3月 豊臣家の移封を要求/4月 再び開戦準備/4月 樫井の戦い/5月 道明寺の戦い(後藤又兵衛討死)/5月 八尾・若江の戦い/5月 天王寺・岡山の戦い(真田幸村討死)/5月 千姫、大阪城より救出/5月 大阪城落城(秀頼・淀君自害)

見どころ・おすすめ

  • 天守閣-豊臣秀吉と大阪城に関する博物館。
  • 門・櫓・蔵-大手門や多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、金蔵など城内には数多くの建物が残されている。
  • 豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地碑-大坂の陣」で豊臣秀頼淀殿が自刃した場所と伝わる。
  • 豊国神社-豊臣秀吉を祀る神社。境内には巨大な豊臣秀吉像が立つ。
  • 石垣-石垣にはところどころ巨石が使われており、これらを巡ってみるのも面白い。
  • 庭園-桜や梅など季節ごとの花が咲き誇る。
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二条城 https://rekishidou.com/nijojo/ https://rekishidou.com/nijojo/#respond Sun, 20 Dec 2015 12:26:48 +0000 http://bng2.com/rekinavi/?p=116 京都府京都市にある城。
江戸時代、徳川家の拠点として京都に置いた城である。明治から昭和にかけて皇室の離宮として使用された経緯から、二条離宮とも呼ばれる。

歴史・概略

関ケ原の戦い」に勝利し実質的な天下人となった徳川家康が、西国諸大名に命じて築城した。他にも足利氏織田信長豊臣秀吉の時代に二条城あるいは二条御所などの名で呼ばれる場所があったが、現在見られる二条城とは全く別のもので関係はない。

後にここ二ノ丸御殿内において、家康秀吉の嫡男・豊臣秀頼との会見が行われた。家康は青年となり立派な姿に成長した秀頼を見て、徳川家の将来に不安を覚え豊臣家を滅ぼす決意をしたともいわれる。

幕末には第15代将軍徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)が、ここ二条城において将軍宣下を受け政務をとった。さらに、慶喜は二ノ丸御殿内に集めた在京諸藩の重臣達を前に大政奉還の意を発表、その翌々日慶喜の政権返上が成立した。これによって徳川政権が終わり、およそ700年に渡って続いた武家政権が終焉を迎えることとなった。

  • 築城:慶長8年(1603年)
  • 廃城:明治6年(1873年)
  • 築城主:徳川家康
  • 構造:輪郭式・平城
  • 主な城主:徳川氏
  • 日本100名城
  • 国宝(二ノ丸御殿)
  • 世界遺産
  • 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦い
  • 慶長6年(1601年)、二条城築城を開始
  • 慶長8年(1603年)、二条城が完成
  • 慶長8年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられる
  • 慶長11年(1606年)、天守が完成
  • 慶長16年(1611年)、豊臣秀頼徳川家康との会見が行われる
  • 慶長20年(1615年)、大阪の陣(豊臣家滅亡)
  • 寛永3年(1626年)、後水尾天皇を二条城に招き饗応(二条城行幸)
  • 寛延3年(1750年)、落雷により天守焼失
  • 慶応3年(1867年)、大政奉還
  • 明治6年(1873年)、廃城
  • 明治17年(1884年)、二条離宮となる
  • 明治27年(1894年)、京都御苑内の旧桂宮邸を本丸へ移築
  • 昭和27年(1952年)、国宝に指定
  • 平成6年(1994年)、世界遺産に登録
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徳川慶喜謹慎之地(宝台院) https://rekishidou.com/hodaiin/ https://rekishidou.com/hodaiin/#respond Mon, 15 Jul 2019 02:32:35 +0000 http://rekishidou.com/?p=7536 江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜江戸城開城後に謹慎した寺院。

歴史・概略

  • 永正4年(1507年)、龍泉寺を開基。
  • 天正17年(1589年)、徳川家康の側室・西郷の局(江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の生母)の菩提寺となる。後に西郷の局の戒名「宝台院殿一品大夫人松誉定樹大禅定尼」に合わせ、寺名を宝台院(ほうだいいん)に改めた。
  • 大政奉還の後に「鳥羽伏見の戦い」が勃発したことで、元将軍・徳川慶喜は江戸へと退却した。慶喜は新政府軍との衝突を避け、江戸を明け渡すことを決意した。そして慶喜は自ら寛永寺で謹慎、後に水戸の弘道館へと移った。新政府は徳川家の駿府への移封を決定し、その際に慶喜も駿府へと移り「宝台院」で謹慎生活を送った。
  • 翌明治2年、慶喜の謹慎が解かれ、慶喜はすぐ近くの元代官屋敷を改修し移り住んだ。

見どころ・おすすめ

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徳川慶喜公屋敷跡 https://rekishidou.com/yoshinobuyashiki/ https://rekishidou.com/yoshinobuyashiki/#respond Sun, 14 Jul 2019 01:26:04 +0000 http://rekishidou.com/?p=7414 江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜が、明治維新後に過ごした屋敷跡。

歴史・概略

  • 徳川慶喜は、大政奉還の後に勃発した戊辰戦争の責任を取って、駿府にある「宝台院」で謹慎生活を送った。しかし翌明治2年には謹慎が解かれ、すぐ近くにあった代官屋敷を改修して移り住んだ。
  • その後、この地でおよそ20年を過ごした慶喜だったが、東海道線の開通に伴ってこの地を離れ、残された屋敷は料亭として開業した。ただ残された建物は火災で焼失しており、庭園に面影を残すのみとなっている。

見どころ・おすすめ

  • 南西すぐのところに慶喜が謹慎生活を送った宝台院がある。
  • 北には家康が幼少と晩年を過ごした駿府城がある。

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若狭小浜藩邸跡(京都) https://rekishidou.com/obamahantei/ https://rekishidou.com/obamahantei/#respond Sat, 08 Apr 2017 03:42:09 +0000 http://rekishidou.com/?p=1972 江戸時代の若狭小浜藩の京都藩邸跡。

歴史・概略

  • 藩主は譜代大名である酒井氏で、老中や大老、京都所司代などの重職に就き、徳川政権を支えた。
  • 南北260メートル、東西220メートル、家臣の屋敷を合わせると約2万坪の広大な藩邸であったという。
  • 幕末には京都所司代に任命された酒井忠義(さかい・ただあき)が大老・井伊直弼(いい・なおすけ)に協力し、尊王攘夷派の志士たちの取り締まりにあたった。また将軍就任前の一橋慶喜(徳川慶喜)二条城に入る前の数年間をここで過ごし、徳川将軍の後見として朝廷の対応などを行っていた。

見どころ・おすすめ

  • 二条城のすぐ南にあるので、散策ついでに寄ればいいと思う。
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