現在の大阪城より南へ数百メートルの場所、かつて細川忠興(越中守)邸がこの付近にあった。越中井はその屋敷の台所にあった井戸と伝えられる。
歴史・概略
- 細川忠興(ほそかわ・ただおき)は室町幕府の幕臣であった細川藤孝(幽斎)の長男で、父とともに織田氏、豊臣氏、徳川氏に仕えた。明智光秀の娘・たま(ガラシャ夫人)を正室に迎えたことで知られる。
- その後、たまは父が起こした「本能寺の変」により幽閉されるなど不遇の時代を過ごしたが、後に豊臣秀吉の時代に変わったことでたまは許された。
しかし、「謀反人の娘」という呪縛から逃れることはできず、このことがキリシタンに傾倒していくきっかけになったと思われる。後に自邸において洗礼を受け、ラテン語で「神の恵み」を意味する「ガラシャ」の洗礼名を受けた。 - 慶長5年9月の「関ケ原の戦い」の本戦が行われる少し前、上杉征伐のため徳川家康はじめ多くの大名達が会津へと向かった。そんな中、徳川家康の討伐のため挙兵した石田三成は大阪城中に残る大名の妻子を人質にしようと画策した。
しかし、ガラシャ夫人は三成方の人質になることを拒み、ひとしきり祈ったあと家臣の小笠原秀清に首をはねられ亡くなった。その後、秀清はガラシャ夫人の遺体を相手に渡さぬよう屋敷に火をかけ自刃したという。
このことが東軍に伝わると逆に東軍内の結束を固くし、西軍不利に働いたとも言われる。 - 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」ガラシャ夫人の辞世の句が石碑に刻まれている。
見どころ・おすすめ
史跡情報
地図 |
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【場所】 大阪府大阪市中央区法円坂 【付近の史跡】
[ 北・約0.1km ] 難波宮跡東辺
[ 北西・約0.2km ] 難波宮内裏東方遺跡
[ 西・約0.3km ] 難波宮跡公園
[ 西・約0.4km ] 前期難波宮朝堂院南門跡
[ 北西・約0.6km ] 石山本願寺推定地
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主な施設 |
井戸・ガラシャ夫人辞世の句 |
利用時間 |
常時 |
定休日 |
無休 |
料金 |
無料 |
交通 |
【電車】 ・地下鉄「森ノ宮」駅から約0.7Km ・JR「森ノ宮」駅から約0.8Km 【バス】 ・大阪シティバス「国立病院大阪医療センター」「馬場町」バス停 【マイカー】 ・阪神高速「法円坂IC」から約1.2Km |